『UFO山』がクリスマスに放送された意味 ポスト・トゥルースであなたは何を“信じたいか”
2025年も年の暮れ、クリスマスが過ぎたらもうあっという間に年越しだ。クリスマスといえば、あなたは“サンタさん”を信じているだろうか。ちなみに“サンタさん”とは家族や恋人など、知り合いの誰かがそれに扮してプレゼントを用意しておく現象のことを指しているわけではない。“サンタ・クロース”という存在そのもののことである。
ちなみに私は信じている、子供の頃から。ある歳のころ、両親から何か種明かしのようなことを聞かされた気もするが、それはそれとして存在はあると考えている。というより、その方が夢もあるし、楽しいし、救いもあって好きだ。
12月22日から4夜連続で放送されたTXQ FICTIONシリーズ第4弾『UFO山』(テレ東系)で投げかけられる「UFOって信じる?」という問いも、「サンタを信じるか信じないか」ということに似ている気がする。ちなみに私はUFOも存在すると思っている。
もう年末はTXQを観ないと気が済まないと思いつつ、クリスマスの深夜に薄気味悪い(褒め言葉だ)モキュメンタリーを観るのもどうなのかと2023年の『飯沼一家に謝罪します』(テレ東系)の放送時には思ったものだ。いま考えてみれば、“家族”を題材にしたこの作品もクリスマス向けだったかもしれない。しかし、今回の『UFO山』は特にクリスマスにかけて放送されることに意味のある、“信仰”と“願い”についての悲劇を映す作品だった。
※本稿にはTXQ FICTIONシリーズ第4弾『UFO山』の全4話に関するネタバレが含まれています。
“光”を見ようとする、人間へ
『UFO山』は、1999年に山で遺体となって見つかった、アマチュア登山家の蜂谷修一の死の真相を解き明かす番組として展開されていく。冬の吹雪の山を一人で登り、全裸の状態で発見された。遺留品の中にUFO関連の書籍があったこと、その事故現場である朝日山が複数のUFO観測地であることから、蜂谷は「UFOに見つけてもらいに入山したのではないか」「アブダクションされたのではないか」という憶測がネット上で広まっていた。そこから番組は過去の新聞や事件を調べながら、最終的にメディア露出をこれまで避けてきた蜂谷の息子に辿り着く。
今回の『UFO山』の真相は、これまでのシリーズ同様少しぼやけた状態で幕を閉じた。第1話は「顔が損傷した状態」を裏付けるように遺留品のサングラスが割れているなど、至る所に不穏な素材がちりばめられている。そして第3話までにかけて広げられていく、風呂敷。謎の光の存在や、大学生の連続不審死。思ったよりも物凄いことが起きているかもしれないし、起きていないかもしれない。そんなふうに“勘繰ってしまう”中、第4話で登場した蜂谷の息子・空から語られた持論と、明かされた“1つの真相”。それを通して感じたのは、事件の真相を追求したいという気持ちよりも「人は自分が信じたいものを信じるし、時には自分の思う“真実”に縋って生きてしまう。しかし、そんな相手を冷笑しながらその“真実”を偽りだと証明することに何の意味があるのだろう」という切ない気持ちであり、不穏で優しい本作のテーゼだった。
『UFO山』が作品を通して訴えるこの主張は、第1話の時点からすでに展開されていた。蜂谷の死が重度の低体温症によって引き起こされたものだということがにわかに信じられない中、その死から1年後に放送された討論番組の映像が映し出される。死の真相も気になる中で、それ以上に印象的だったのは、この番組内で対立意見を持つ2人の専門家のやりとりだ。
UFOを信じる派の意見に対し、「死者への冒涜だ!」と反対派が激昂。会話の熱はヒートアップし、「世界中で同じような証言があるわけです(中略)どうしてそれをあなた方は錯覚だとか捏造とかありえないってそういう言葉で片付けちゃうんですかね」と信じる派の専門家は言葉を捲し立てた。しかし、それに対する反対派からのとある一言で2人の空気感が変わるのだ。
「そこに“光”を見たのは、あなた方がそれを勝手に解釈してしまう、意味を探してしまう人間だからです」
この言葉を聞くと、UFOを信じる専門家は少し落ち着きを取り戻した様子で「僕はそこに宇宙人がいました、いたんです、と断定しているわけではないんです。それを言いたいわけではないんですよ」と話し出すと、反対派も馬鹿にせず、態度を軟化させて「うん」と優しく相槌を打つ。
「自然現象だけだとは説明しきれないものが存在したってことを、その可能性を、そういう可能性を排除してはいけないのではないかってことを僕は言いたいんです」
「まあ、その程度ならわかりますよ。それだったら良いんです。(中略)この現象に関してわからないことは当然ありますよ。僕が言っていることが全部正しいとも言わない。僕らが言っていることも、わかってくれますよね?」
こんなふうにお互い冷静に話し合った末に行き着いた結論は、「(蜂谷の死とUFOとの結びつきの)可能性はある」ということだった。
TXQ FICTIONはこれまでもSNS上での考察によって盛り上がってきたシリーズ。だからこそ序盤は、何事にも意味を探すような昨今のブームとも言える“考察”に対するアンチテーゼとも取れるスタンスに思えたが、全話を観ると印象が変わってくる。むしろこの会話の本質は、考察を否定するどころか、それが人間の性であることを受け入れると同時に「同じ意見を持たずとも相手が何かを信じる、または信じたい気持ちを理解せずとも否定もせず、“可能性はある”というニュートラルな言葉を使って会話をしたいよね」という、なんとも優しいものだった。
クリスマスの贈り物を探しに行った蜂谷、残された息子
それに、この「(UFOと死との結びつきは)可能性はあり」という回答は正しかったように思う。蜂谷はUFOに倒錯していた。UFO前衛科学研究会の代表である酒井の著書を持って入山したり、彼の仮説を検証するために九州まで山に登りに行ったり、そもそも大学でUFO前衛科学研究会のメンバーだったことも明かされた蜂谷。妻子もあまり顧みずに、自分が登山をしたいという気持ちだけで会社も辞め、札幌市内から日高地方にまで引っ越してしまったのだから、息子の空が言及していたように、夫婦仲も悪くなるはず。実際、第1話で番組にインタビューされた際は「妻からスーパーが遠いと文句を言われる」と笑いながら言うあたりに、家のことは彼女に任せていることが窺える。極め付けには「山と家族、どっちを取るか」という質問に対し、「山」と悪びれる様子なく答える蜂谷。放送直後に離婚した、ということだがおそらく、あの放送を見た妻が離婚を決意したのだろう。
蜂谷の人間性は、夫や父親という立場からするとあまり褒められたものでもない。ただ、それでもすでに壊れていた家族仲を修復させるため、クリスマスの時に息子が何の気なしに言った「UFOが見たい」という“願い”を叶えようとして入山していたことがわかると、その最期やそれを映したビデオを“何回も繰り返し”観て、最終的に「父はアブダクションされて、遺体はすり替えられた別人」と主張する空を踏まえて、全てが切なくてやるせなくなってしまう。幼い頃に握った父の手は黒くて、小さくなっていた。重度の凍傷で体が黒ずんだり縮んだりすることがあり、第1話で不穏さを煽った「顔の判別がつかない」のも、凍傷による黒ずみが原因だったことが示唆される。余談ではあるが、個人的に最初は蜂谷が研究会のメンバー(石井)に殺されたと思っていた。なぜなら、遺留品の「UFO 超周期仮説」の表紙になんとなく血痕のようなものがついているように見えたこと、番組スタッフも石井の関与を疑うくらい蜂谷に関して嫉妬している(脱サラして、好きにロマンを追い求めている姿勢が妬ましい)ように感じたからだ。
ただ、そんなことは置いといて、空にとってそのまま現実を見つめるということは、子供の頃の自分の言った一言が父を死に追いやった事実と対峙せざるをえない。それはあまりにも辛いから、“置き換えている”のだ。第2話で取り沙汰された「スクリーンメモリー」のように。そして何度も撮影クルーに「どう思いますか」と聞くのは、自分の仮説を誰かに肯定してほしいからではないだろうか。少しでも救われたいはずなのだ。
いまだにYouTuberなどから冷やかしで連絡が来るのも、ある意味その「蜂谷修一の息子」としてのアイデンティを保つ……この世で“何者か”であることへの面子保持として機能しているが、それゆえに罪の意識からも逃れられない。部屋の荒れ具合から感じるセルフネグレクトぶりや、父親の最期を何度も観るような自傷行為など、心配してしまう部分が多く、ただひたすらに切ない。そんな空の部屋に『統合失調症と宗教』という“実在する”本が置いてあったことも興味深いのだ。
先述のテーゼに加え、「こうなのではないか(いや、こうであってほしい)」という“願い”や、「信仰によって心が救われる」というテーマを、父と息子の物語にのせて描き切ったように思う『UFO山』。ただ、不穏な部分を忘れたわけじゃない。