『ロマンティック・キラー』は恋愛映画ではない “恋愛=制度”をパロディで解体する試み
百世渡原作の人気漫画を実写映画化した『ロマンティック・キラー』は、一見ロマコメの顔をしていながら、実際には恋愛を描く作品ではない。この映画が正面から扱っているのは、我々が長年ごく自然なものとして受け入れてきた、“恋愛という制度”そのものだ。
学園ラブコメというフォーマットにおいて、恋愛は常に自発的な感情として描かれてきた。出会いは偶然で、好意は自然に芽生え、恋に落ちることは成長の証として語られる。『花ざかりの君たちへ』のような女子1人+男子複数という構図も、モテや選択肢の多さとしてロマン化され、祝福されてきた。
だが、『ロマンティック・キラー』はそのような映画に非ず!!!!!!!
主人公・星野杏子(上白石萌歌)は、チョコを頬張りながら、愛猫を撫でつつ、ゲームにいそしむ非ヒロイン属性。だが恐ろしいことに、この世界では彼女の非恋愛モードは認められない。誰かを好きにならないと魔法界のバランスが崩れるという、何だかよく分からない理由によって、恋愛をしない=異常事態として扱われてしまう。
ここで描かれているのは、恋愛そのものへの否定ではない。問題にされているのは、「いま恋愛をしない」という選択が認められないことだ。学園恋愛作品が暗黙のうちに前提としてきたのは、恋愛には適切な時期があり、若いうちに経験しておくべきだという人生の時間割。遅れること、選ばないこと、保留にすることは、物語の中でほとんど許されてこなかったのである。
その修正装置として現れるのが、魔法使いリリ(髙橋ひかる)。恋愛は個人の幸福の問題を超え、社会を回すための資源として再定義され、杏子の意思とは無関係に、イケメンたちが次々と投入されていく。体育系、不良、秀才、SAT、兵士、刀剣。登場するのは、多種多様な男子たち。ここまで来ると、それはもはや「モテ」というよりも、恋愛イベントがシステムとして主人公を包囲している状態。そしてこの過剰さは、完全なパロディとして機能する。
吊り橋効果としての『スピード』、国境・分断越えロマンスとしての『愛の不時着』、喪失と純愛の等価交換としての『世界の中心で、愛を叫ぶ』、運命論としての『君の名は。』、余命ロマンスとしての『君の膵臓をたべたい』、献身と支え合いとしての『ビューティフルライフ〜ふたりでいた日々〜』(TBS系)……。ジャンルも時代も異なる名作たちが、断片的に、誇張された形で引用される(なぜか『名探偵コナン』や『千と千尋の神隠し』も登場する)。
どの作品も、「恋愛は人生を変える」「恋愛は人を幸福にする」という恋愛礼賛主義を、形を変えて語ってきた代表例だ。本作はそれらを一つひとつ丁寧に再現するのではなく、超過密状態で同時多発的に提示する。その結果、ロマンはもはや成立せず、感動は渋滞する。
「かかってこいよ、日本の恋愛(ロマンティック)」という映画のキャッチコピーが示しているのは、恋愛そのものへの挑発というよりも、恋愛を「正解」「成熟」「通過儀礼」として半ば自動化してきた、日本の恋愛表象の蓄積に向けられたものだろう。そして『ロマンティック・キラー』は、「それ、マジで全員に必要?」と正面から問いを投げかける。ここで言う「かかってこい」とは、ロマンへの反抗ではなく、ロマンを装って個人に選択を迫ってきた制度への宣戦布告なのだ。