『ペリリュー』は戦争アニメの新たな金字塔に 『プライベート・ライアン』級の衝撃が再び
ポスト・トゥルース時代の戦争アニメ
以上のように、『ペリリュー』は、アニメーションというメディア自体が持つ表現上の特性を見せつつも、ここ10年ほどの戦争アニメのパラダイムに沿って作られた作品だとも言える。ただ、同時に本作には、それら関連作品には見られない新たな要素が加味されているところも注目される。それが、リアリズムの問題とも関連する、「ポスト・トゥルース」的なリアリティというきわめて現代的な問題だ。
『ペリリュー』には、全編を通してメディアを媒介にした情報がどこまで真実なのかわからない、むしろ「真実」はそれを受け取る側によっていくらでも相対化され複数化されうるという問題が繰り返し登場する。例えば、田丸は島田少尉にマンガを描く才能を見込まれて、戦死者の最期の様子を記録し遺族に伝える「功績係」の任務を命じられる。しかし、それは最期の姿を勇壮に見せるために、わざと虚飾をまぶした創作を暗黙に求めるものだった。つまり、田丸の筆によって、戦死者の最期の「真実」はいくらでも加工=仮構可能なものとなる。
また同様の事態は、島田少尉の指揮のもと、米軍の糧秣を奪った生き残りの兵士たちが、日本の敗戦を知らぬまま、2年以上も潜伏を続けた後、最初に敗戦の事実を知るシーンにも表れている。まず、島民がアメリカ軍の戦艦に乗って島へ戻ってくる様子を目撃した吉敷たちは、戦況の変化を察知して動揺する。そこで、アメリカ軍のゴミ捨て場から大量の新聞や雑誌を持ち帰ると、英文で戦争の終結と日本の敗戦を知らせる内容を発見する。そこには、終戦を伝える数多くの写真も掲載されていた。しかし興味深いのは、兵士たちの多くはその事実を疑い、容易に認めようとはしないことだ。それらの写真もまた、アメリカ軍がわれわれ日本軍を騙すために偽造したフェイクではないかと彼らは疑うのである。
ここで彼らが見せている態度は、図らずも21世紀の私たちの持つ感性の写し絵のようになっている。周知のように、生成AI以降の視覚文化においては、活字だけでなく、もはや写真や動画などの視覚的イメージまでも自在に加工・生成可能となり、何ら「真実」(現実)を保証する媒体ではなくなってしまった。もちろん、アナログの時代にも合成画像自体は存在していたが、人間の口元の動きや画像全体まで精細かつまるごとバーチャルに生成できる今日のディープフェイクの画像は、ロラン・バルトの写真論のいう「かつて-ここに-あった」(『明るい部屋』)という実写映像の「指標性」を完全に雲散霧消させてしまった。その意味で、実写(指標性のある映像)でありながら、視覚的トリックを駆使したジャンルである「特撮」の代名詞として知られる『キング・コング』(1933年)を上映するシーンが作中に登場するのはいかにも示唆的である。『ペリリュー』が描く根深い虚飾と懐疑の想像力は、こうした21世紀的なポスト・トゥルース的リアリティを如実に感じさせる。
「戦争の歴史をどう伝えていくか」という問い
では、彼らはどのようにして日本の敗戦の「真実」を最終的に「実感」しえたのだろうか。一応、ここではその詳細は伏せておこう。ぜひ劇場で確認していただきたい。
が、それは非常に、ある種の親密で、身体的・触覚的な確証を備えた手段によってだった。われわれにとって、「真実」を伝えられ、また実感するための有力な方途は、もはやメディアを媒介にした表象ではなく、身体的・触覚的な経験や記憶に基づいた、親密なメッセージに置き換わっている――すなわち、『ペリリュー』の結末は、ポスト・トゥルース化した現代において、戦争にまつわる体験や記憶に象徴される、ある「歴史」の手触りをどのように伝えていくのかという問いそのものをも巧みに寓意化しているように見受けられる。
本作の題材となったペリリューの戦いが、犠牲の多さと惨状に比較して現在ほとんど知られておらず、「忘れられた戦い」(公式サイトより)と呼ばれていることは、その「戦争の歴史を伝えること」の今日的な可能性について再考させるための最良のモティーフになっているだろう(余談ながら、この戦いが一種の前哨戦のようになった「硫黄島の戦い」を描いたクリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』(2006年)は本作との類似性を感じさせる)。ここにこそ、本作の戦争アニメとしての新たな画期と、傑作たる所以がある。
戦後、激戦を生き延びた田丸はどのような半生を送ったのだろうか。原作はともかく映画では描かれないが、念願のマンガ家になったかもしれないし、実家の食堂を継いで細々と生きたのかもしれない。
私の祖父は、戦後は故郷に戻って、再び小学校の教員に復帰した。結婚し、2人の息子にも恵まれた。後年は、私の卒業した母校を含む複数の公立小学校の校長を歴任し、定年退職後は悠々自適の老後を送って、戦後50年を迎えた数年後、もう30年近く前に死んだ。
田丸と同じような過酷な体験を経た祖父は、戦後を生きる教え子の子どもたちに教育を通して何を伝えようとしたのか。加齢のためか、晩年はどんどん偏屈になっていった祖父のことを、思春期だった当時は正直疎ましく思っていた。戦争の話を聞くこともなくなった。ところが、自分も家庭を持ち、やはりアニメーションや映画を教える教師となり、戦後80年を迎えた最近、私は無性に祖父のことを思い出す。
優れた戦争アニメである『ペリリュー』は今年、私以外の多くの観客にも、やはり同じような感慨をもたらすのではないだろうか。
■公開情報
『ペリリュー ー楽園のゲルニカー』
12月5日(金)全国公開
キャスト:板垣李光人、中村倫也、天野宏郷、藤井雄太、茂木たかまさ、三上瑛士
原作:武田一義『ペリリュー ―楽園のゲルニカ―』(白泉社・ヤングアニマルコミックス)監督:久慈悟郎
脚本:西村ジュンジ・武田一義
キャラクターデザイン・総作画監督:中森良治
プロップデザイン:岩畑剛一、鈴木典孝
メカニックデザイン:神菊薫
美術設定:中島美佳、猿谷勝己(スタジオMAO)
コンセプトボード:益城貴昌、竹田悠介(Bamboo)
美術監督:岩谷邦子、加藤浩、坂上裕文(ととにゃん)
色彩設計:渡辺亜紀、長谷川一美(スタジオ・トイズ)
撮影監督:五十嵐慎一(スタジオトゥインクル)
3DCG監督:中野哲也(GEMBA)、髙橋慎一郎(STUDIOカチューシャ)
編集:小島俊彦(岡安プロモーション)
考証:鈴木貴昭
音響監督:横田知加子
音響制作:HALF H•P STUDIO
音楽:川井憲次
主題歌:上白石萌音「奇跡のようなこと」(UNIVERSAL MUSIC / Polydor Records)
制作:シンエイ動画 × 冨嶽
配給:東映
©武田一義・白泉社/2025「ペリリュー ー楽園のゲルニカー」製作委員会
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