『テルマエ・ロマエ II』を徹底考察 歴史映画の皮を被った“ズレ”と祝祭のコラージュ
過積載こそ正義! 武内英樹が辿り着いた、異常テンションの頂点
『テルマエ・ロマエ II』は、前作の文化比較コメディの延長線上にあるようでいて、実はそこから大きく踏み外している。武内監督はこの続編で、漫画原作から逸脱し、古代ローマの政治劇からメタ映画的な構造までを飲み込む、奇妙に雄大な寓話へと作品を拡張してしまった。
まず目を引くのは、政治劇としての強度。ハドリアヌス帝の和平路線と、元老院の好戦派の対立。コロッセオが、血の祭りから癒しの場へと変換されていく、倒錯した展開。これらは、原作にはほとんど存在しない構造だ。武内は続編というハードルを逆手に取り、風呂を単なるギャグ装置ではなく、「暴力を融解し、人を和らげる平和のテクノロジー」へと高次化してみせる。グラディエーターたちが入浴によって心を開き、ついにはコロッセオの暴力の形式そのものが書き換わってしまう流れは、荒唐無稽でありながら、どこか寓話的な重みを帯びている。
その寓話性を象徴するのが、冒頭に配された死闘シークエンスだ。武内監督はリドリー・スコット『グラディエーター』(2000年)のスケール感を確信犯的に模倣しながら(テラッテラな色調がめちゃくちゃリドリー・スコットっぽい)、同時にその重厚さをずらしていく。群衆シーンは壮大だが、どこかテレビ的な手触りが残り、セットの人工性とCGの軽やかさが同居する。リアリズムを捨て去り、舞台装置的な嘘をあえて残すことで、映画は歴史劇というジャンルの権威を軽やかに笑い飛ばす。だからこそ、コロッセオに温泉が導入されるという超展開が破綻せず、むしろ爽快なコメディの頂点として機能してしまう。
確かにこの世界観の過積載は、原作の軽妙さを好む層には過剰に感じられるかもしれない。政治ドラマ、ロマンス、文化比較ギャグ、メタフィクション、クマ、松島トモ子(あ、あと浪越徳三郎)が同時多発的に流れ込み、実はそうとうハイコンテクストな作品になっている。しかし、その混沌こそが『テルマエ・ロマエ II』のエンジン。古代ローマと現代日本という遠すぎる二つの文明を無理やり接続し、風呂という最も日常的な行為に文明批評を背負わせる。その無茶を、武内監督は「異常なテンション」と「お祭り的祝祭感」で強引に成立させてしまう。
『テルマエ・ロマエ II』は、続編の枠を越えた奇妙な自由に満ちている。歴史映画の形式を借りたコメディでありながら、文明そのものを素材にした寓話でもある。ズレと混乱と混成。そのすべてをエンターテインメントとして昇華した武内版テルマエ・ロマエは、文化の衝突を“祝福”へと変える稀有な続編映画だといえるだろう。
参照
※ https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1602F_W3A110C1000000/
■放送情報
土曜プレミアム『テルマエ・ロマエⅡ』
フジテレビ系にて、11月29日(土) 21:00~23:10放送
出演:阿部寛、上戸彩、北村一輝、竹内力、宍戸開、笹野高史、市村正親
原作:ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』(KADOKAWAエンターブレイン刊)
監督:武内英樹
脚本:武藤将吾
音楽:住友紀人
©2014「テルマエ・ロマエⅡ」製作委員会