『九龍ジェネリックロマンス』に潜む“懐かしさ”の正体とは 生と死の境界としての香港
九龍城砦を舞台とした映画としては本年2本目にあたる『九龍ジェネリックロマンス』は、『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』とはまたひと味ちがった懐かしさをまとっている。『九龍ジェネリックロマンス』の舞台となる九龍城砦は、過去に存在した実際の城砦そのものではない。上空には正八面体の近未来的な物体が浮かび、「ジェネリックテラ」の建築が進められていることがテレビによって伝えられる。懐かしさと新しさが共存した独自の九龍城砦を舞台に物語は進められる。
九龍城砦の不動産屋で働く鯨井令子(吉岡里帆)は、先輩社員の工藤発(水上恒司)に想いを寄せていたが、ふたりの距離感はつかずはなれずの同僚を超えないものだった。変わらない毎日を送っていた鯨井だったが、金魚茶館の店員に工藤の恋人と間違われたこと、そして工藤のスーツから自分と工藤が写った身に覚えのない写真を発見したことをきっかけに自らを取り巻く謎に迫ろうとする。過去の記憶をもたない鯨井と謎の物体に見下ろされた九龍城砦の正体とはいったい何なのか——。
※『九龍ジェネリックロマンス』のネタバレを含みます
結論から言ってしまえば、この九龍城砦はオリジナルの鯨井を自死で失った工藤の感情がジェネリックテラに流れこむことによってできた、いわば「ジェネリック九龍」(作中では「第二九龍」と呼ばれる)であり、本来の九龍城砦はすでに取り壊されていた。そして主人公として観客が当初まなざしていた鯨井は、オリジナル亡きコピーでしかなかったことが明かされる。つまり鯨井も城砦ももともとつくりものに過ぎなかったのだ。
そもそも九龍城砦とは何なのか——『トワイライト・ウォリアーズ』で一躍話題をさらったこの場所について簡単に触れておこう。九龍城砦とはかつて香港に実在した「東洋の魔窟」とも呼ばれる違法建築群、スラム街である。飛び地となりどこの国の干渉も受けなくなった九龍では、黒社会によってアヘンや賭博、売春が蔓延っていたという。九龍城砦といえばこのような恐ろしい暗黒のイメージが先行しがちであったが、これを善良な一般住民の暮らしという観点から捉えなおしたのが『トワイライト・ウォリアーズ』であった。実際九龍城砦に住む大部分は善良な人々であり、暗黒な地区と健全な地区は分かれていた。住宅の取り壊しや強制立ち退きの心配がないというただそれだけの理由で住んでいた人々の生活の記憶は『トワイライト・ウォリアーズ』という映画によって、城砦取り壊しから約30年が経ったいま、われわれ日本人のもとにも手渡されている。
『トワイライト・ウォリアーズ』は九龍城砦とそこに住むひとびとの生を再現する、いわば城砦という有機体こそが主人公の映画であり、建築物や空気感の再現度は目を見張るものがある。限りなくリアルに近い九龍城砦のイメージを享受した観客が多いなかで、日本製の九龍城砦セットには心配の念もあったのだが、それは杞憂に終わったようだった。『九龍ジェネリックロマンス』の城砦は作中でもつくりものであり、ハリボテなのだ。生々しい九龍城砦の質感が広く知られた今年だからこそ、『九龍ジェネリックロマンス』の城砦のつくりものっぽさはよりいっそう明確に感じられる。ニセモノで、非現実の空気をまとった第二九龍——それは(ほぼ)現実の九龍城砦を映画のなかで生きた経験との比較によって濃密に色づけられてゆく。
『九龍ジェネリックロマンス』の物語の核となるのは、失われた対象をノスタルジックな世界観に再現するということにあるが、これに類似した作品に『ワンダヴィジョン』がある。『ワンダヴィジョン』はマーベルのドラマシリーズで、時間軸としては『アベンジャーズ/エンドゲーム』以降にあたる。パートナーであるヴィジョンをサノスとの闘いで喪失したあとのワンダが、シットコムの世界でヴィジョンとの生活を創造する物語である。九龍城砦とシットコムという舞台が違うだけで、愛する死者を蘇生したいという工藤とワンダの志は限りなく近いものであるようにみえる。
彼らが死者の姿を立ち上げる舞台は、いまはもうなき地区であったりテレビ番組であったりする。この「いまはもうなき」というのは懐かしさの根源である。わたしたちはたとえば「いまはもうなき」地元の駄菓子屋をなつかしみ、「いまはもうなき」『笑っていいとも!』(フジテレビ系)をなつかしむ。