『べらぼう』でも“文化系オタク”の一面が発揮される? 松平定信の知られざる素顔を解説
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第33回「打壊演太女功徳」。暗躍する一橋治済(生田斗真)に松平定信(井上祐貴)は「老中首座を望む」と静かに詰め寄った。
政権の風向きが変わる瞬間だ。田沼意次(渡辺謙)の時代が終わり、自由で華やかな空気は遠ざかっていく。代わりにやってくるのは、定信による厳格な締め付けである。芝居や出版は規制され、蔦重(横浜流星)たち文化人には、冬の時代が訪れる。
定信は文化人への弾圧で知られるが、実は彼が芸術や文学を愛する「文化系オタク」でもあったことは、あまり知られていない。
将軍になり損ねた男
まずは定信の血筋や立場を、少し立ち止まって振り返ってみたい。定信は、御三卿の筆頭・田安家の七男として生まれた。将軍家の血が絶えた際に、跡継ぎを出すために設けられた御三家(尾張・紀州・水戸)に加え、8代将軍吉宗の時代に新たに生まれたのが御三卿(田安・一橋・清水)だ。
ほかの兄弟は早世もしくは養子に出ていたため、兄・治察(入江甚儀)が亡くなったとき、本来なら定信が家督を継ぐはずだった。10代将軍家治(眞島秀和)の後継者にもなり得る立場でもあった。しかし、定信は兄の生前に白河藩への養子縁組が決まり、兄の死後も田安家に戻ることは許されなかったのだ。
出版弾圧で版元や戯作者を苦しめた、蔦重のラスボス
白河藩主時代の定信は天明の飢饉対策で名を上げ、その功績から老中首座として幕政の舵を握る。寛政の改革による体制の立て直しや江戸湾の海防強化などに取り組み、出版や芝居を厳しく規制し、蔦重や戯作者たちを弾圧した。
蔦重は財産の半分を没収され、朋誠堂喜三二(尾美としのり)は筆を折り、大田南畝(桐谷健太)は狂歌を控えた。山東京伝(古川雄大)は断筆ののち銀座に店を構え、以降「戯作は副業」と決めた。恋川春町(岡山天音)は自死したとも伝わる。
前任の田沼意次の不人気の中で、定信の老中首座就任は大歓迎された。しかし庶民の批判の矢面に立つのも老中首座という役職である。定信の政策に息苦しさを感じた人々の間には、田沼時代を懐かしむ声さえ生まれた。 やがて定信の独裁化を危惧した治済により、わずか6年で老中を解任されてしまう。
定信の意外な「文化系オタク的」一面
将軍に最も近い家に生まれながら、さまざまな思惑に翻弄されて白河藩主として生涯を終えた定信。彼が老中首座の地位を追われたのは36歳のとき。そこから72歳までの後半生を彼はどう生きたのか。彼には世に知られていない一面があった。
『べらぼう』第33回のとあるシーンに筆者は釘付けとなった。城内で幕閣が打ちこわしについて協議をおこなう中、一人自室に寝そべって「のほほん」と本を読んでいる定信の姿が映し出されたのだ。
彼が読んでいたのはおそらく、漫画の元祖といわれる「黄表紙」。だとしたら、現代の若者がベッドの上で寝転がって漫画を読むのと何ら変わりはない。
定信は筋金入りの文化系オタクだった。表向きは閣僚として文化を締め付けながら、私生活では芸術と文学をこよなく愛したのである。
中国の古典や歴史書など1年で400冊を読破し、20冊近い著作を残した。最初の著書『自教鑑』を書いたのは12歳のとき。内容は「人が守るべきモラルについて自戒を込めて綴った」ものだった。ドラマ冒頭で、治済を「徳川家の自覚がない」と𠮟りつけたクソまじめな定信ならば納得である。
文学だけではない。定信は絵画コレクターでもあり、自身も絵を描いた。老中時代には近習で絵師の谷文晁を江戸湾巡視に同行させ、沿岸を正確に記録させた。西洋画の遠近法や陰影を駆使したその記録は『公余探勝図』として残る。