『ANORA アノーラ』と重なる『それでも夜は訪れる』 ヴァネッサ・カービーの深みある演技
ドリーンが何を考えているにせよ、少なくともリネットが頭金を用意しなければならない。彼女は朝までに足りない金を手に入れるため、街を彷徨うことになるのである。その過程でギョッとさせられるのは、リネットにいわゆる「パパ活」相手が存在していたことだ。アメリカでは金銭を介して男女が疑似恋愛的な関係で時間を過ごす「パパ活」のことを「シュガー・デート」と呼び、“パパ”のことを「シュガー・ダディ」と呼ぶ。リネットが数カ月ほど会っているというアジア系の男性(ランドール・パーク)との関係は、この都市で二分されている経済格差の象徴ともいえる。
主人公が妻子ある男性と金銭目的で会っているという設定や、あまつさえ性行為や窃盗にまで及んでしまうという展開は、映画作品としては観客の感情移入を阻害する要素になり得る。とはいえ、アメリカの貧困層の状況や、そのなかで生き抜こうとする、立場の弱い女性をリアリズムを反映して描こうとするのであれば、このような陰惨な現実を描く必要があるというのも事実だろう。そこを逃げてしまっては、この映画は多くの作品と同じく、現実から離れていくことになるはずなのだ。
このようなリアリティは、『ANORA アノーラ』のショーン・ベイカー監督や、『グッド・タイム』(2017年)のサフディ兄弟監督など、倫理に反する行為や犯罪に手を染めるとこまでいく姿を描く、近年評価されている作風と共通するものだ。それは、経済格差の状況がより悪化し、社会の現実がより厳しいものになっている背景を物語ってもいるといえよう。通り一遍の“行儀の良い貧困者”では、その苦しさは表現しきれない場合がある。
リネットたちが経済的に苦労する背景には、貧困層が住む地域に富裕層が移り住んでくることで、もともと住んでいた者たちが周縁へと追いやられてしまう「ジェントリフィケーション」と呼ばれる現象もある。コンパクトにまとまった街に大勢の人々が流入し、再開発がおこなわれていく状況で、力のない人々がその場所に留まり続けることは困難なのである。
そうまでしてリネットが家を自分のものにしたかった理由は、冒頭に映し出される幸せな少女時代が物語っている。だが父親が姿を消したことで、厳しい環境のなかで生きることになった彼女は、15、6歳になると自暴自棄になり、悪い男と付き合い、いまでも心に傷を残す悲惨な体験を味わっていた。だからこそリネットは、“幸せな過去”の象徴である、自分が育った自宅に執着するようになっていったと考えられる。ときに攻撃的になり犯罪行為にまで手を出してしまう彼女の精神には、10代の頃のストレスが関係していたことが明らかになっていくのだ。
内面に大きな傷を抱えながら、さらに身体中に傷を増やして、幸せを取り戻そうと前進し続けるヴァネッサ・カービーの演技は、観る者の胸を激しく掻き乱すことになるだろう。ドラマ『ザ・クラウン』で協働したベンジャミン・カロン監督が、このカービーの深みある演技を引き出している。そして、ジェニファー・ジェイソン・リー演じる母親との対話は、良い母親、良い娘になれなかった二人の女性の本音がぶつかることになる、クライマックスの重要な場面だ。そこには、美しい「ホームドラマ」から逸脱する、トゲトゲとした苦い現実の手触りがある。
本作『それでも夜は訪れる』は、『ANORA アノーラ』ほどの印象的でセンセーショナルなラストシーンは用意されていないかもしれない。だが、そこで共通する、傷ついた一人の女性が家に戻ろうとするシーンの、さらに後の展開、心の繊細な動きと転換を描いている。そこに、厳しい時代を生きる人々への、ささやかな希望が、より自然なかたちで表現されているといえるのだ。
■配信情報
『それでも夜は訪れる』
Netflixにて配信中