『あんぱん』嵩と“史実”のやなせたかしの違い “正義”を求めて迷い続けた2人の生涯
NHK連続テレビ小説『あんぱん』がとんでもない展開になってきた。手嶌治虫(眞栄田郷敦)に刺激され、漫画の道を歩もうとして百貨店を辞めたものの売れずにいた柳井嵩(北村匠海)。しかし作詞をした楽曲「手のひらを太陽に」が大ヒットし、TV番組の構成を手がけるようになり、人気歌手のリサイタルも手伝うようになってと忙しい日々を送り始める。それは、嵩のモデルとなったやなせたかしにも当てはまることだが、同時に何者にもなれない苦悩の日々の始まりでもあった。
「一九六〇(昭和三十五)年、ひとりの長い顔をした青年が、突然荒木町のぼくの家にやってきた。頭は職人風の単発で、すりきれたジーパンを格好よくはきこなして、長沢節が描くファッション画の男の子のように脚の線がきれいだった」
やなせたかしの自伝『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)に書かれている、やなせたかしと永六輔の初対面シーンだ。永は、『あんぱん』の第98話でMrs. GREEN APPLEの大森元貴が演じるいせたくやと連れだって柳井嵩の家を訪ね、舞台美術を依頼した六原永輔(藤堂日向)のモデルになった人物。そんな永に誘われて描いた舞台美術は、新聞評で「童話的で美しいとほめられた」そうだ。
いせたくやのモデルで、永の舞台で音楽を担当したいずみたくも永と同様に、「ぼくを評価してくれて、その後何度か装置を手伝う」(※)ことになった。そこから「演出とか台本の書き方もいくらか解るようになった」やなせは、「永ちゃんを見習って、作詞もするように」なった。TVアニメ『それいけ!アンパンマン』の主題歌「アンパンマンのマーチ」を作詞したことで知られるやなせだが、その源流に家を突然訪ねてきた永の存在があったと思うと興味深い。
「手のひらを太陽に」以降のやなせたかしの躍進と挫折
そんな作詞の仕事から生まれたのが、1961年に作った「手のひらを太陽に」だ。『あんぱん』第101話で登場したこの楽曲を、やなせは「十チャンネルのニュースショーの構成をした時に、その中の今月の歌としてつくった」という。最初に歌ったのは女優の宮城まり子。『あんぱん』で久保史緒里が演じる白鳥玉恵のモデルだ。
ドラマでは、白鳥が「手のひらを太陽に」を歌った後で、やなせにリサイタルの構成や衣装のデザインを依頼する順番になっている。実際は、『漫画読売』の仕事で宮城にインタビューしたことがあったやなせに、ある日突然宮城から電話がかかってきて、リサイタルの構成をしてほしいと頼まれたことが付き合いの始まりだった。
「なぜ、ぼくに最初のリサイタルを依頼したのだろうか? いくら考えてもよく解らない」と『アンパンマンの遺書』に綴るほど、意外な依頼だったようだが、時のスターだけあって「メロメロ状態のぼくは、構成というのはなんだか解らないまま引き受けてしまった」。押しの強い白鳥にたじたじとなっている『あんぱん』の嵩とは違っていたようだ。
リサイタルの構成は初めてだったやなせだが、漫画や創作活動を通して数々の物語に触れてきただけあって、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を下敷きにしたストーリーを作り出した。衣装デザインも頼まれていて、映画雑誌からオードリー・ヘップバーンの着ていた衣装を参考に描き上げた。デザイナーが修正するものと思っていたら、ほとんどそのまま衣装になったというからやはり才人だったのだろう。
ただ、漫画も含めた創作活動では未だ代表作に恵まれなかった。NHKの『まんが学校』で講師を務め、作詞の仕事もしてとマルチな分野で活躍しても、永やいずみや青島幸男、前田武彦といった人たちにとうてい及ばないと考えていたようだ。そうした心情を、やなせは「ぼくは四十歳を越えてもまだ自分の方向がまったくわからず、五里霧中で、挫折どころか、出発していなかった」と自伝で吐露している。きっと何者にもなれない自分に絶望感を覚えていたのかもしれない。