『火垂るの墓』がアニメーションで表現された意義 戦後80年に考えたい“人との繋がり”

 『キネマ旬報セレクション 高畑勲 「太陽の王子 ホルスの大冒険」から「かぐや姫の物語」まで』(キネマ旬報社)に採録された『火垂るの墓』の宣材パンフレットで、高畑監督は、「戦争でなくてもいい、もし大災害が襲いかかり、相互扶助や強調に人を向かわせる理念もないまま、この社会的なタガが外れてしまったら、裸同然の人間関係のなかで終戦直後以上に人は人に対し狼となるにちがいない」と書いている。

 戦争の悲劇を改めて描くのではなく、終戦から40年が経って浮かび上がっていた社会の歪みを示そうとした映画だったからこそ、清太と節子を幽霊として登場させ、2人に対する周囲の無関心を見せ、それに立ち向かおうとして若さゆえに敗れていく2人の様子も見せたのかもしれない。

 こうした狙いは、やはりアニメーションだからこそ表現できた。実写でも以前なら合成、現在ならCGIで幽霊となった清太や節子を登場させることは可能だが、同じ役者が2役を演じてみせたときに漂う生身の人間の強い実在感が、悲惨な内容ともあいまって観る人をおののかせてしまう可能性がある。アニメーションなら、色や動きによってキャラクターの実在感を減らし、薄紙を通してその向こうで起こっている出来事を冷静に観察させることができる。こうした意図が、公開からさらに40年近く経った今もなお『火垂るの墓』を古びさせず、むしろより必要な作品として輝かせている。

 家族の絆も隣人同士の連帯感も40年前からさらに薄まり、SNSのような表面的なつながりの中でお互いがお互いの顔色ばかりうかがって暮らしているこの時代に、清太の生き方はどうにも身勝手で最後も自業自得だと受けとられるだろう。もっとも、こうした世の中のギスギスとした空気こそ、高畑監督が『火垂るの墓』で暴きたかったものだったのかもしれない。そうだとしたら、令和の時代に放送される意味は極めて大きく、起こる論争も願ってもないものだ。

 「まず人と人とがどうつながるかについて思いをはせることができる作品もまた必要であろう」。そう宣材パンフに書いた高畑監督の思いが届くのかどうかを、見守る必要があるだろう。

 絵で描くことによって、現実を見ていては気づかなかったことに気づかせるというアニメーションの役割については、1945年ごろの日本を背景美術などで精緻に丁寧に描くことで、実写で撮る以上のリアルさをもたらしたと言えるだろう。美術監督の山本二三が中心となって描き上げた物語の舞台は、家屋も田畑も空襲を受けた街も溜め池のほとりの防空壕も、当時の空気を強く感じさせるものとなっている。

 2014年に「山本二三展」を開催した静岡市美術館が出したプレスリリースでは、背景美術の迫真のリアリズムに原作者の野坂が「アニメ、恐るべし」と言ったと紹介されている。描き手の思いが乗り登場人物の心情も感じ取れるような背景美術を使えるのも、アニメーションで作る意味の大きな部分だ。

 『火垂るの墓』のテレビ放送を観る、あるいはNetflixで始まった配信を観るときは、高畑監督の演出意図であり、それに全力で応えた作画であり背景美術であり音楽といったものを確かめつつ、そこから作り手の思いを感じ取ろう。それが、終戦から80年が経ち映画の公開から37年が経った今の人たちにできることであり、やらなくてはいけないことだ。

■放送情報
『火垂るの墓』
日本テレビ系『金曜ロードショー』にて、8月15日(金)21:00~22:53放送
※ノーカット放送
声の出演:辰巳努、白石綾乃、志乃原良子、山口朱美
監督・脚本:高畑勲
原作:野坂昭如
製作:佐藤亮一、鈴木敏夫
製作総指揮:佐藤隆信、原徹
©野坂昭如/新潮社, 1988

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