堤幸彦監督『STEP OUT にーにーのニライカナイ』が描いた、これまでにない沖縄映画の構造
「沖縄」といえば何が思い浮かぶだろうか。海、シーサー、三線などなど。映画においても「沖縄」は多様なイメージを伴って様々な機能を果たす。開放的なロケーション、独自の文化や風習、戦争の歴史、そこに暮らす人々の思想や方言は視覚的な効果はもちろんのこと、独特なストーリーラインを作り出し、ドラマとしての異化効果を生み出しやすい。
例えば、沖縄県出身の映画監督・ゴリ(照屋年之)による、沖縄を舞台として一部の地域に伝わる風習をテーマに描いた映画『洗骨』では、沖縄出身でない夫と沖縄出身の妻による「ここ本当に日本なの?」「一応日本に入ってるよ」という特徴的なやりとりがある。このように、「沖縄」は物語において死生観や人生観についても、いわゆる‘’内地”では描ききれない新たな視点や幅の広い思考を際立たせることができるため、自覚的な部分も含めて、映画においてもその舞台として多く選ばれるのだろう。
また、そういった文化や思想などを比較し、強調するためのものとして、「沖縄」が舞台となる映画では、同時にかなりの確率で「東京」が舞台としてもワードとしても登場する。そして、数多くの作品において「沖縄」と「東京」の移動と選択の物語が描かれるのだ。さらに、それは大きく2つのパターンに分けられるだろう。『ぱいかじ南海作戦』や『島々清しゃ』のように「東京」から「沖縄」に移動する物語と、『ニライカナイからの手紙』や『366日』のように「沖縄」から「東京」へと向かう物語である。そして、『STEP OUT にーにーのニライカナイ』は後者「沖縄」から「東京」に向かう物語となっている。
『TRICK』シリーズ(テレビ朝日系)でお馴染みの堤幸彦と仲間由紀恵というタッグで制作された本作は、シングルマザーの母・朱音(仲間由紀恵)と妹・舞(又吉伶音)とともに沖縄で暮らす少年・照屋踊(Soul)が、ダンススクールに通うことから始まる物語だ。踊は、スクールの先輩・仲村リサ(伊波れいり)に恋をし、共に切磋琢磨して、自身もその才能を開花させながらダンサーとして東京を目指すこととなる。
その上で、「沖縄」を舞台とし、2025年3月に公開された映画『STEP OUT にーにーのニライカナイ』が、これまで数多くの「沖縄」を舞台としてきた作品とは一線を画す部分が音楽にある。
本作では、劇伴において多くの「沖縄」映画と異なり、ヒップホップやダンスミュージックが前面に押し出して扱われ、三線や民謡のような「沖縄」的な劇伴がほとんど使われないのである。そして、今の沖縄で生まれ生活をする少年たちは、スマホの動画配信でダンスやラップを学び、文化としての「東京」との距離を描かない現代性もその特徴のひとつだ。
また、キャンプのシーンでは沖縄県出身のラッパー・Rude-αによる挿入歌「CoCo ga OKINAWA」が使用されるなど、やはり従来の三線や民謡を用いた「沖縄」的な雰囲気作りではなく、ラップやダンスがベースとなった若者たちの青春が瑞々しく映し出される。もちろん、数多くの空撮による絶好のロケーションとしての「沖縄」という視覚的なエンターテインメント性は残しており、本作はまさに現代の「沖縄」が見事に現れた、最新の沖縄映画の形を作り出しているとも言えるだろう。
つまり本作においては、若者にとっての文化的なギャップとして「東京」が描かれるのではなく、地元から遠く離れた憧れの場所、ここではないどこかとして「東京」が描かれている。そしてそれは、劇中にて「東の海の向こうの理想郷」として説明される「ニライカナイ」の思想とも密接に結びつく部分なのだ。
そんな若者たちと現代の沖縄を描いた本作において、伝統と風習や独自の文化としての「沖縄」の姿を伝える役割は、世代の対比によって行われていく。シーサー職人の老人・新垣郁夫(津嘉山正種)が、本編で沖縄という文化を象徴し、踊に伝えるポジションを担うのだ。
踊は、1973年に実際に沖縄であった「子象」の脱走事件と未だに見つかっていないその象の歴史の話を郁夫から伝え聞き、人間は皆同じであり、上も下も偉いもないといった価値観や思考にも大きな影響を受けていく。また、郁夫は黒と白のシーサーという文化を通して、未知の世界に向かう現状維持と、今ある何かを大切にする現状打破の選択を彼に改めて伝える。そんな郁夫との出会いによって踊は、地元である「沖縄」を再認識していく。