『スーパーマン』が問う“アメリカ的正義”のゆくえ 建国理念の再解釈か“隠蔽”か?
『スーパーマン』(2025年)が絶賛公開中である。今日のアメリカ的正義のゆくえを鋭く問う風刺に満ちた一作だ。混乱きわまる社会の寓話として比較しても、ポン・ジュノの『ミッキー17』(2025年)よりはるかにうまく纏まっているように感じられた。『ミッキー17』が他者との共生を謳う象徴的寓話として月並みな描写を超えられず、独裁者の描写もクリシェを超えたものとは言い難かったのに対し、本作『スーパーマン』は徹底して〈いま・ここ〉にある危機を背後に娯楽映画の醍醐味が一部の隙もなく踊る。まずは緻密に練り上げられた脚本の力に大きな拍手を送りたい。
われらが物語の主人公、スーパーマン(デヴィッド・コレンスウェット)は冒頭からまず徹底的な敗北を喫している。クリプトン人の生き残りとして異なる星からいわば地球に亡命してきた移民の子であるスーパーマンは、そのどこまでもまっすぐな義侠心から国際政治の血腥い紛争に介入しようとしていた。ボラビア国(あきらかにロシアを連想させる)のジャルハンプル(こちらは明らかにガザだ)への侵略をなんとか食い止めようとほとんど力ずくで奮闘しているのだが、ボラビア国へと密かに武器供与をはかるレックス(ニコラス・ホルト)はそんなスーパーマンを快く思わない。いやむしろスーパーマンの存在自体を元から不快に思っていたレックスが、彼を消す口実を作るため影から巧みに演出しているものこそ件の侵略だったのだ。スーパーマンを殺すためにレックスはひたすら手を尽くす。冒頭とんでもない超人を出現させてスーパーマンをこてんぱんに倒してしまうかと思えば、大量の猿を用いてSNSサイトに誹謗中傷を書き込み、そのプロパガンダの力で世間を反スーパーマン一色に染め上げてゆく。傷を負ったスーパーマンは、雪原のなかに隠れた自身の城壁「孤独の要塞」のなかでクリプトン星で死んだ両親の残したことばを聞き再度力を賦活される。正義を持って戦わなければないない。だが、破損されて聞き取れぬそのビデオメッセージには続きがあって……。
本作を貫くのは、アメリカ的な正義が果たして今日でもなお無自覚に適用されるべきものなのかという極めて切実な倫理的問いかけである。両親たちは地球の愚昧な人々を洗脳して侵略すべしと唱えていた。スーパーマンはクリプトン人の父母の声をその精神的な癒しとして用いているが、いわばこの音声は移民国家アメリカの建国理念そのものと見てよいだろう。ここにもし重大な欠陥があるとしたら? つまりその音声=理念が仮に表向きはスーパーマン=アメリカの正義を駆り立て担保するものだったとしても、その裏側でその当のメッセージ自体が実は他者に対する侵略や暴力を胚胎するものだったとしたらいったいどうなってしまうのか。最初スーパーマンは必死になってその裏側のメッセージは偽物だと主張する。そんな音声はレックスとその一味が捏造したものだと強弁する彼はどこか侵略や暴力は存在しないと説く歴史修正主義者の姿を思わせる。だがそのメッセージの動画が絶対にフェイクではないと知らされるや思わず絶句してしまう。