ミニオンズはなぜ世界的キャラクターに? 映画史の“王道”と“快楽”を備えた特別さ

 「なんか黄色くてかわいいやつ」――いまやすっかり、老若男女問わず、世界中の人々から愛されるキャラクターとなった「ミニオンズ」について、ここで改めて振り返っておこう。

 映画『怪盗グルーの月泥棒』(2010年)で、初めて世に現れた「ミニオンズ」。その造形は、完全に「偶然の産物」であったという。スペインのアニメ監督セルジオ・パブロスのアイデアをもとにした“Despicable Me”――日本語にするならば「卑劣な私」、ニュアンス的には「俺は悪党!」といった感じだろうか――の物語。のちに日本では『怪盗グルー』シリーズと題されることになるこの物語の主人公は、世界一の悪党を目指す男、グルーだ。設定上、そんな彼には、やはり自らの手となり足となる“minion(従者、下僕の意味)”――権力者の意向に盲従する者たちが必要だ。要は『仮面ライダー』シリーズにおける「ショッカー」のような「手下たち」だ。

『怪盗グルーの月泥棒』©2010 Universal City Studios Productions LLLP. All Rights Reserved.

 当初は「屈強な男たち」を想定していたという「手下たち」は、紆余曲折の果てに、なぜか黄色いカプセル型の生物たちとなった! ひとつ目と2つ目の2種類がいて、体形や頭髪などに差異や個性がありつつも、全員ゴーグル着用で、揃いのオーバーオールに身を包みながら、奇妙な言語で意思疎通を図る謎の生物たち。どうやらバナナが大好物。そう、我々が知る「ミニオンズ」の誕生だ。ちなみに、総勢どれぐらいなのか不明なほど山ほどいるミニオンたちの「声」をすべて担当しているのは、シリーズ立ち上げの頃より、アメリカのアニメ監督クリス・クノーと共同監督を務めてきたフランスのアニメ監督ピエール・コフィンだ。そんなことってあるのか?

 かくして公開された“Despicable Me”――日本タイトル『怪盗グルーの月泥棒』は、世界中で予想を超えた大ヒットを記録する。その理由は、コミカルで愛らしいだけではなく、グルーを崇め奉り、困難もいとわず果敢に行動するわりには、ちょこちょこ失敗をしでかすミニオンたちの存在だった。続く2作目『怪盗グルーのミニオン危機一髪』(2013年)からは、日本タイトルにすべて「ミニオン」が入ることになり、さらにはミニオンたちを主人公としたスピンオフ作品『ミニオンズ』(2015年)が制作・公開され、こちらも世界中で大ヒットを記録。今回地上波初放送される『ミニオンズ フィーバー』(2022年)は、その続編にあたる長編映画だ。

『ミニオンズ フィーバー』©2021 Universal Studios. All Rights Reserved.

 ところで、前作『ミニオンズ』で明らかとなったのは、ミニオンたちの知られざる「歴史」だった。もともと海で暮らす単細胞生物だったミニオンたちは、その時代の最強最悪の主に仕えることを生きがいとしており、太古の昔より、ティラノサウルスや原始人、エジプトのファラオ、吸血鬼、ナポレオンなどに仕えてきたというのだ。自らの失敗によって、歴代の主たちを絶滅・没落させてしまった彼らが、流浪の果てに、グルー少年と出会うまでを描いた物語。それが『ミニオンズ』だった。そして、まさしくその続きを描いたのが、本作『ミニオンズ フィーバー』(原題は、“Minions:The Rise of Gru”)という次第である。物語の舞台となるのは、70年代のアメリカ西海岸だ。

 前作のメインとなった――というか、グルー以外の観客にも、ようやく個体識別できるようになった、ケビン(背が高くて目は2つ、頭長から逆毛が飛び出している)、スチュアート(背は標準で目はひとつ、真ん中分けのヘアスタイル)、ボブ(背は低くて目は2つのオッドアイ。ティムと名づけたテディベアを、いつも小脇に抱えている)の3人に、オットー(大柄でぽっちゃり。目は2つで8本の頭髪。なぜか歯科矯正中。とにかくドジで忘れっぽい)が新たに加わった4人のミニオンたちと、その主である「ミニボス」こと12歳の少年グルー。彼らを中心として、『ミニオンズ フィーバー』の物語は描き出されてゆく。

 ところで、このスピンオフシリーズが画期的だったのは、ミニオンたちが主人公であるがゆえに、その会話の内容が、ほとんど意味不明ということだった。もちろん、特に問題はない。その動きはもちろん、感情表現も実に豊かなミニオンたちを見ていれば、自ずと物語は理解できるから。というか、その「物語」や「台詞」以上に、コミカルな動きと、いわゆる「ドタバタ」の展開こそが、この「世界」の何よりの魅力であることに、我々は完全に気づいてしまったのだ。しかもそれが、映画やアニメーションの「王道」でありながらも、いつのまにか失われつつあった、原初的な「快楽」であることにも、我々は気づいてしまったのだ。

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