『夜明けのすべて』は“身振り”の映画である 三宅唱のリズムで描き出された“宇宙”
「リズム」が描き出すもの
また、『夜明けのすべて』は、これまでの三宅作品の重要な主題系が引き続き、いくつも顔を覗かせていることでも注目に値する。その一つが、繰り返される「リズム」のモティーフである。
たとえば、三宅ともほぼ同世代と言ってよく、同様に現在の日本映画を牽引する濱口竜介が、一つの舞台作品であれ(『親密さ』『ドライブ・マイ・カー』)、同世代の4人の友人たちの関係性であれ(『ハッピーアワー』)、複数のアクターが協働し、何らかの事態が少しずつ変容したり完成したりする「プロセス」をリニア(直線的)に描いていく映画作家だとすれば、三宅は、よく似た要素を持ちつつも、どちらかといえば、そうしたプロセスが円環的にループし、何度も同じ位置にリフレインする「リズム」の要素を強調する傾向にある。
『ケイコ 目を澄ませて』であれば、それはあのケイコがノートの紙面に書きつけるカツカツと響く鉛筆の音であり、他ならぬボクシングのサンドバッグに打ち付けるジャブの音や鏡に映す全身の反復的な身振りとしていたるところに登場する。あるいは、小さな部屋の中で若いラッパーたちがヒップホップのトラックを制作するプロセスをフィクスのカメラで記録した『THE COCKPIT』(2015年)もそのわかりやすい先例の一つだろう。
そうした三宅的リズムの要素は、『夜明けのすべて』でも文字通り、リズミカルに反復される。前作を髣髴とさせる箇所でいえば、和夫や辻本が参加する自死遺族の例会で行われる卓球の、台を弾くピンポン玉の音が思い出される。また、シーンを彩る、Hi’Specのミニマルな劇中音楽も印象に残る。だが何よりもそれは、もはやいうまでもないだろうが、タイトルの「夜明け」とも関わる、地球の自転に伴う昼と夜、光と影の周期=リズムであり、またプラネタリウムの夜空を巡る「星座」の周期=リズム、そして、何よりも主人公である藤沢さんの身体の生理的リズム=月経周期に他ならない(※)。
注意したいのは、とりわけ『夜明けのすべて』では、このいくつもの「リズム」が、先に述べた人々が身振りによって結びつく時に、重層的な意味を帯びながら、そこにいつも付随する点である。とりもなおさず、その「リズム」は、たとえば、自死遺族たちの行う卓球のように、孤独な人々のコミュニケーションを促すポジティヴな契機にもなれば、他方で、まさに藤沢さんのPMSや山添くんのパニック障害の発作のように、円滑で自然なコミュニケーションを阻害する、一見、ネガティヴな要因にもなる。ただ、藤沢さんと山添くんの発作が、他方で彼らを逆に結びつけることにもなるように、それが物語の中で持つ意味は決して一様ではない。本作の劇場パンフレットに収録された松村との対談の中で、三宅は「パニック障害というのは、自分の体の中にもコントロールできない自然があるということ」であり、それは「自分の中にも宇宙のように未知の世界がある」(5ページ)ということだと述べている。『夜明けのすべて』が描く無数の「リズム」の軌跡とは、いわば、この世界の豊かさそのもののことなのだ。藤沢さんの身体と星の巡りのように、そこではすべてが反転し合いながら、人間と宇宙を貫いて、繋がり合う。
「映画」としての宇宙
ところで、藤沢さんと山添くんが勤める会社を、移動式プラネタリウムを実施する企業としたのは、瀬尾の原作小説にはない、今回、三宅が追加した映画版オリジナルの設定である。物語のクライマックス、移動式プラネタリウムの真っ暗なテントの中で、来場者たちは、星々がきらめく頭上のスクリーンを見上げる。また、本作では、ほぼ全編を通じて、栗田科学の副社長・住川雅代(久保田磨希)の息子の中学生・ダンと同級生の少女が、学校の課外活動と思しいビデオ撮影による社員インタビューを行っているシーンがエピソード的にインサートされる。これもまた原作小説にはないディテールだ。
これらの点に注目することで、メディア論的な視点から最後に一つのある批評的な解釈を付け加えて、このレビューを終えたい。
すでに本作について多くの観客が言及している通り、『夜明けのすべて』は、このデジタル全盛の時代に、あえて16ミリフィルムを用いて撮影されている。そのフィルム独特の肌理に宿る触覚的と呼べる質感が、本作の「夜明け」というモティーフを視覚的に表現する光と影の“あわい”のイメージによく馴染んでいることは明らかである。そして、このこととも考え合わせれば、以上のようにアダプテーションされた『夜明けのすべて』は、他ならぬ「映画」という20世紀的なメディアの隠喩に満ちみちた映画だということができるだろう。
おそらくこの類推は、やはり前作の『ケイコ 目を澄ませて』によっても補足できるものである。繰り返すように、先天的な聴覚障害のプロボクサーを主人公にしたこの作品は、『夜明けのすべて』に先駆けて、やはり16ミリフィルムで撮影されている。物語の中で、ヒロインのケイコは、所属する下町の小さなボクシングジムの閉鎖の危機に直面している。また、言葉を発しないケイコが弟の聖司(佐藤緋美)と手話で会話するシーンでは黒地の画面に字幕が挿入される。フィルムというメディウムによってかたどられた、いまや閉鎖されようとする古びた「空間」を舞台に、言葉を発しない人物が躍動する『ケイコ 目を澄ませて』の世界とは、その意味で小津安二郎やF・W・ムルナウの「サイレント映画」の慣習と記憶を観客に強烈に呼び覚ます(『サンライズ』のあの電車!)。
やはり濱口と同様、フィルム撮影の映画から、Netflix配信によるオリジナルドラマ『呪怨:呪いの家』(2020年)、『ワイルドツアー』(2018年)などのインスタレーション作品まで幅広い「映像作品」を手掛ける「ポストメディウム」な監督でもある三宅は、それゆえにこそというべきか、近作において、「映画」へのメディア考古学的な目配せを演出や映像に入れ込んでいるのだ。こうしたアプローチは、その他の傑出した現代映画ーーたとえば、図らずも日本では『夜明けのすべて』と同日公開となった、ビクトル・エリセの31年ぶりの新作『瞳をとじて』とも共鳴するものだろう。
そして、以上のアナロジーから「映画的」な時空として描き出される宇宙空間の中で、実際には何光年もの気の遠くなるような距離を介して散らばっている孤独な星たちは、たとえばそれがプラネタリウムのような平面(スクリーン!)の上に置き換えられ、「星座」として結ばれることで、この世界に一つの関係を生み出すことができる。それは再び冒頭の問いに戻るなら、藤沢さんや山添くんたちが演じる、豊かな身振り=コミュニケーションのドラマを思わせる。だとすれば、本作が差し出すすべての「夜明け」とは、この世界と「映画」、その両方の言い換えでもあるはずだ。
※ 本文のような作品評にとどまらない、現代映画における「リズム」の問題の重要性については、拙著でも繰り返し論じてきた。関心のある方は、『イメージの進行形』(人文書院)第2章、および『新映画論 ポストシネマ』(ゲンロン叢書)第3章を参照のこと。なお、この「リズム」のモティーフは、昨今の映画批評でもしばしば指摘される、現代映画で全面化する「音(楽)の復権」とも深く関わっている。その意味で、三宅の映画版が、原作小説にあった音楽映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)をめぐるエピソードをカットしたことは注目すべき点である。
■公開情報
『夜明けのすべて』
全国公開中
出演:松村北斗、上白石萌音、渋川清彦、芋生悠、藤間爽子、久保田磨希、足立智充、りょう、光石研
原作:瀬尾まいこ『夜明けのすべて』(水鈴社/文春文庫刊)
監督:三宅唱
脚本:和田清人、三宅唱
音楽:Hi’Spec
製作:『夜明けのすべて』製作委員会
企画・制作:ホリプロ
制作プロダクション:ザフール
配給:バンダイナムコフィルムワークス=アスミック・エース
©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会
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