『夜明けのすべて』は“身振り”の映画である 三宅唱のリズムで描き出された“宇宙”
一つの「身振り」から
映画冒頭、小ぶりの大きさのバスロータリー広場に面した駅前の風景を、カメラがやや斜めの位置から静かに捉えている。陽の光を遮断する分厚い灰色の雲に覆われた空からは、大量の雨がしとしとと降り注いでいる。その中で、カメラの手前にあるバス停のベンチに、傘も差さずに雨水に濡れそぼりながら、スーツ姿の小柄の若い女性が一人、こちらに背を向けて座っている。カメラはカットを割り、彼女が無気力に、小脇に抱えたバッグから、汚れることも厭わずに、中身の小物をポンポンと濡れた地面に放り投げるショットを短く挿入する。
瀬尾まいこの2020年刊行の小説を原作とした、三宅唱の2年ぶりの新作長編『夜明けのすべて』が物語の冒頭から観客に示すのは、さしあたり以上のような、さまざまなモノが、どこか/誰かに届く宛先もなく、人物の手によって孤独に空中を舞う、「投げ出す」身振りである。そうした身振りは、このオープニングに続く映画の前段で、いくらか執拗に反復される。土砂降りの中、ベンチにうずくまっていた物語の主人公・藤沢さん(上白石萌音)は、普段は人当たりのいいおっとりした性格ながら、月に一度訪れる、重度のPMS(月経前症候群)のために、就職した会社で度々トラブルを起こしている。たとえば、勤務中に医師から処方された薬を飲んだ藤沢さんは、副作用の強烈な睡魔のため、腰掛けた椅子で熟睡してしまうが、その時もまた、映画は、彼女の手元から、本来、机の上に配布するはずだった資料の束が膝から足元へと所在なげに投げ出される様子を見せる。
『夜明けのすべて』は、会社を退職して5年後、相変わらず、PMSを抱えた藤沢さんが、転職した先の、移動式プラネタリウムを実施する中小企業「栗田科学」で、パニック障害のために、やはり大手企業から転職してきた年下の青年、山添くん(松村北斗)と出会い、周囲の人々と関わりながら、互いに自らの境遇を見つめ直していく物語である。
「投げ出す」身振りから「贈与」の身振りへ
『夜明けのすべて』は、まずーーこれまでの三宅の多くの作品がそうだったようにーーこの上なく豊かな「身振り」の映画だと言ってよい。
ここでいう身振りの豊かさとは、もちろん、それを演じる人物たちのそれぞれの意図が、一切の支障や相克もなく、円滑に、また安全に表現され、透明に他者へと伝達されるということを意味していない。描かれるのはむしろ、それとはまったく逆の事態である。
三宅の映画はつねに、何かが欠損し、また互いの意図が混線し、不断に中断の危機に曝される複数の身振り=コミュニケーションの演じる行先をこそ、じっと凝視し続ける。そこにあるのは、そうしたありふれたコミュニケーションからは逸脱しているマイナーな身振りたちが、ふとした瞬間に私たちに垣間見せる、また作中の状況を変化させる、別種の可能性としての「豊かさ」なのだ。
たとえば、それは三宅の前作『ケイコ 目を澄ませて』(2022年)であれば、岸井ゆきのが演じた主人公のプロボクサーの姿に象徴される。先天的な聴覚障害を持った小河ケイコもまた、劇中ではひとことも言葉を発さない。その代わり、黙々と鉛筆でノートに書きつける日記の言葉(文字)と、がむしゃらに殴り合うボクシングの反復的な身振りこそが、余人には獲得しえない、他者と世界との確かな繋がり方を彼女に可能にしているのだ。『夜明けのすべて』もまた、すでに触れたように、登場するほぼすべての人々が、何らかの意味で、人生に欠落を抱えながら、身の置きどころなく生きている。藤沢さんと山添くんはともに日常生活に関わる身体的な不調を持ち、映画の現在時点では介助なしでは歩行すらできなくなっている藤沢さんの母・倫子(りょう)も同様である。また、二人を雇う栗田科学の社長・和夫(光石研)や山添くんの上司・辻本憲彦(渋川清彦)は、過去に身内を自死で亡くしており、自死遺族で作る定例コミュニティに参加している。いわば彼らの身振りは、直接的な意味であれ、寓意的な意味であれ、絶えず躓き中断し、滞留し、目的を見失い消失する気配を感じさせる、脆いものである。実際に、藤沢さんも山添くんも、出会った当初は、互いの意図を図りかね、ぶつかり合い、できる限り遠ざかることで自分の居場所=アイデンティティを守っていた。改めて注意すれば、三宅はその彼らのよるべない姿を、他ならぬ「投げ出す」という身振りそのもののイメージで具体化=視覚化している。山添くんもまた、作中で初めて対面した藤沢さんから手渡された差し入れのシュークリームを、「クリーム苦手なんで」と、即座に「投げ出す」だろう。この点に、この映画のただならぬ迫力が宿っている。
だとするならば、物語の中で徐々に変化していく彼らのコミュニケーションが描かれる際にも、やはり同じように何らかの別の具体的な身振りが示されるはずである。その特権的な身振りこそ、本作の中で何度も何度も口にされ、またそれと同時に行われる、「よかったら……」というひとことを添えられた、さまざまな「贈与」をめぐる身振りなのだ。藤沢さんは、自身のPMSにより職場に迷惑をかける度に、必ず近くで買ったお菓子を同僚の一人ひとりに申し訳なさそうな表情で手渡し、配る。それだけでなく、パニック障害で交通機関を利用できない山添くんのために自転車を用意し、また初詣で買ったというお守りを、山添くんだけでなく、彼の交際相手の千尋(芋生悠)にまで気軽に分け与える。その気遣いは、端から見ていると、やや過剰にも見えるだろう。
しかし、そうした彼女の「よかったら……」という贈与の身振りは、いつの間にか、それまで孤独に点在していた人々を、思わぬ形で新たに結びつけていく。事実、藤沢さんと山添くんがはじめて笑い合い、打ち解けるきっかけとなった山添くんの自宅での散髪のシーンは、先ほどの自転車を藤沢さんが届けたことが発端になっている。さらに、その藤沢さんの身振りは周囲にも「感染」していく。最初の方で、藤沢さんのそうしたコミュニケーションに拒否反応を示していた山添くんも、彼女のPMSの症状について理解を深めていくうちに、やがてある時、苛立つ彼女に心遣いでホットのペットボトルを手渡し、物語の終盤では栗田科学の同僚たちに(まるで藤沢さんのように!)鯛焼きを買ってくるまでになる。そればかりか、同様の行為は、自死した弟が遺したカセットテープを山添くんに貸す和夫、自身の甥と遊んでくれる山添くんに煮物を手渡す辻本、やはり山添くんに食べ物を手渡す千尋など、周囲の人物たちの身振りにまで派生していくのだ。
この映画の感動的な点は、「よかったら……」と手を差し伸べることで、それまでは測りかねていた互いの距離を、少しずつ、ぎこちなく、だが確かに埋め合わせていくという、私たちの誰もが経験的に知る身振りをみごとに掬い取っているところだろう。勤務中にパニック障害を発症し、早退する山添くんの数メートル後ろを、彼との距離を推し量るように歩く藤沢さんの後ろ姿を見守るように据えられるショットに、私たちが深く心を揺さぶられるのは、そのためだ。
「投げ出す」ことから「贈与する」ことへ。『夜明けのすべて』は、登場人物の間の距離やコミュニケーションに起こる繊細な変容のプロセスを、あくまでもこうした具体的な身振りの主題的な転換として描き出している。ここに、本作の「映画」としての重心があることを、スクリーンに向かう観客は、誰もが納得し合うはずだ。