これぞ日本のエンタメの底力! 『リボルバー・リリー』綾瀬はるかが挑んだ怒涛の銃撃戦
いかに丁寧に作り込まれているかで、映画はその大部分が決定するといっても過言ではない。シナリオや人物描写はもちろんのこと、いわゆる“世界観”という言葉で大きく括られがちな作品全体の雰囲気や美術、衣装といったディテール、ひいては編集や音楽に至るまで。ただリアルを追求するのではなく、完膚なきまでに作り込まれた虚構とのバランスを的確に保つことで、“映画らしさ”という化学反応が生まれる。ことにアクション映画のようなジャンル性の強い映画であれば尚更、作り込まれた虚構の部分にどれだけのリアルを落とし込めるかが重要となってくる。
行定勲という監督は、言わずもがな高い演出力を持った日本映画界を代表する作り手ではあるが、こうしたアクション映画とは縁遠い印象にある。ミニシアター全盛期に手がけた初期作品や作り手としての確固たる地位を得た『GO』に代表されるように、彼の作品群は常にその時代その時代の若者のリアルを丁寧に切り取り、そこに作劇上必要ないくらかの虚構を加味して作り込んでいくことで、魅力ある“映画”へと昇華させてきた。それを踏まえれば『リボルバー・リリー』という作品は、従来の「行定映画」とは逆転の発想が必要な作品だといえよう。
関東大震災からの復興の兆しが著しい1924年の東京を舞台に、孤高の暗殺者・小曽根百合(綾瀬はるか)が、陸軍資金にまつわる重要な機密を握った少年・慎太(羽村仁成)と出会い、彼を保護する。しかし、陸軍の精鋭部隊は彼を執拗に追いかけ回すのである。長浦京による同名小説を原作にしたこの『リボルバー・リリー』は、さながらジョン・カサヴェテスの傑作『グロリア』のような、あるいはリュック・ベッソンの『レオン』のような、“守る者/守られる者”の関係とそれらを追う者たちの熾烈な攻防を描くアクション大作である。
映画の冒頭から、百合という主人公が“幣原機関”という特殊機関で訓練を受けた諜報官であること。世界中の要人を57人も殺害し、ぱたりと消息を絶って10年の月日が流れたことが説明される。ところがテロップが明けて映画が始まれば、たったいま消息を絶ったと説明されたばかりの百合がスクリーンの真ん中にいるではないか。そして彼女が仕立て屋から外へ出れば、広がっているのは大正時代の銀座の街を再現した雄大なオープンセットによる光景。この時点で、この映画は作り込まれた大正時代という世界を軸にして、そこに主人公たる小曽根百合の物語が注ぎ込まれるかたちで構築されていくものだと示される。
そのため必然的に、ひとつひとつのシークエンスが展開する“場”が重視されていく。百合と慎太が出会う列車のシーンでは、数多ある列車アクション映画の文脈に準えるように進行できる範囲が限定されたアクションが繰り広げられ、そこから飛び降りるというアクションを経て開放的な空間に転じる。闇に包まれた河畔をボートで漕ぎ出す『雨月物語』を想起させる神秘的な場面では、水上での攻防から逃れて岸にあがったところで、月に照らされた美麗な格闘が繰り広げられる。そして百合の意識を巣食う南始(清水尋也)という不可思議な人物の幻影が現れる、震災復興記念祭の一連では、怪奇映画のような空気をただよわせながら、それを一発の銃声によって引き裂いて映画のなかの現実へと引き戻す。いずれもそれぞれの場から、その後の物語へ向けて器用に発展させていくのである。
もちろん劇中で幾度も訪れる銃撃戦も、どれも魅力的な場において、興味深いシチュエーションのなかで展開していく。中盤のハイライトともいえる銃撃戦は、玉の井の雑然とした街のど真ん中で行われる。陸軍兵たちが狭く入り組んだ道を抜け、程よい段差の上から見下ろすような場所に位置する「ランブル」の店内。そこから彼らの姿をやや見上げるかたちになる百合と、2階から見下ろすかたちになる慎太たち。外に出た百合に陸軍兵たちが銃を向けると、百合の背後にいた奈加(シシド・カフカ)が間髪入れずに発砲。そこから始まる銃撃戦は、突如としてその場に紛れ込む幼児の存在によって緩急がつけられ、休戦へと持ち込まれる。こうした『戦艦ポチョムキン』的なオマージュは、これまでも幾つもの作品で見受けられているが、銃撃という非現実から現実へと引き戻す役割を担うのであろう。