『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は“歪んだ社会”を照射する 昭和からの変化を捉えた作品に

 山奥にある村で起こる猟奇的な出来事を描いている映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』。田舎は魔界だと思わせる横溝正史ばりのミステリに見せて、実は終戦間際が舞台となった宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』(2023年)と、宮崎吾朗監督『コクリコ坂から』(2011年)の時代を結ぶ位置にあって、地方から都会へと人もお金も情報も移っていった「昭和」という時代の変化を捉えた映画でもある。

 『この世界の片隅に』の片渕須直監督に、『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)という作品がある。昭和30年の山口県防府市を舞台に、麦畑が広がる農村風景の中で暮らす新子と、工場の医師として赴任した父親に連れられ首都圏から転校してきた貴伊子の交流が描かれる。

 初登校の日に香水を付けてきたり、26色もの色鉛筆を使ったりと他の子たちとは違った文化様式を見せる貴伊子が、『呪術廻戦』の釘崎野薔薇が憧れていたお姉さん・沙織ちゃんのように激しく虐められる展開にならないのは救いだが、それでも都会と地方との間にあるギャップといったものは感じられた。

 そうした「地方vs都会」といった構図が、今の人にも先入観として刻まれているからだろうか。『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』でも、東京から山奥にある哭倉村へと赴く帝国血液銀行の水木が、地方にある“掟”めいたものによって襲われ、観る人を戦慄させる展開になるのではといった想像が浮かんだ。トンネルを越えて入った哭倉村の住民たちから向けられる敵意や、尋ねていった龍賀家の一族たちの冷淡な態度が、その後に起こる因習を理由にした惨劇を予想させた。

 違っていた。哭倉村と東京をはじめとした外界との間にあるのは対立ではなく隷属だった。地方の金も資源も命までもが社会の中に組み込まれ、発展のために利用されるという構図がそこに描かれていた。

 水木が哭倉村へと向かうのは、村に拠点を置きながらも政財界を陰で支配していると言われている龍賀一族に婿として入り、製薬会社の社長をしている克典に取り入って利権を得ようとするため。その利権の中には「M」と呼ばれる秘薬があり、日本がさらなる復興を目指す上で不可欠なものと見られていた。そして水木は、独占できれば莫大な富を生む「M」の秘密を探る目的で入った哭倉村で、「M」のおぞましい正体を知ることになる。

 『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズらしく、妖怪が絡んだ設定に仕立て上げられていたが、リアルな世界へと置き換えると、人間の歴史で常に存在してきた都会と地方という南北問題であり、資本と労働という格差問題として語れるものでもあった。横溝正史の『八つ墓村』にあるような、平家の落人が開いた村で生まれ育まれた因習のようなものは存在していなかった。映画『ミステリと言う勿れ』の方が、狩集家に秘められた因習に久能整(菅田将暉)が迫る現代版横溝ミステリといったものになっていた。

 『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』では龍賀一族に掟のようなものがあって、それに縛られた沙代や外孫の長田時弥がたどる運命に涙したくなる。水木が後に鬼太郎の父となる男と組んで、そうした因業へと立ち向かって打ち壊すヒロイックなストーリーの面白さがあるからこそ、観客が増え続けている。

 ただ、龍賀一族は因習で村を縛っておらず、社会とも隔絶していない。むしろ日本を陰から動かす存在として社会を動かし、歴史を作る存在となっている。『君たちはどう生きるか』の旧家が、眞人の父親が働いている近隣の工場のスポンサーになって、地域から働き手を提供し、都会が求めるものを作っているのだとしたら、『ゲゲゲの謎』の龍賀一族と役割は同じだ。

 『マイマイ新子と千年の魔法』で貴伊子の父親が務め始めた工場も、戦前からある大企業の傘下として働き手を提供し、製品を送り出していくことで都会に本社を置く大企業を儲けさせてきたのだとした。昭和が描かれたアニメ映画から感じ取れるそうした地方と都会との関係性を、妖怪退治というエンターテインメントの中で描いて見せたところに、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』が持つ深さがある。

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