『ブギウギ』六郎役・黒崎煌代はとんでもない俳優になる “生きている”演技の只者じゃなさ

「ワイな、寝るときに考えてまうねん。死ぬってどんな感じなんやろって。どないなって死ぬんか思うと、頭おかしなりそうになるんや」
「ワイ、死にとうないわ。死にとうないわ」

 こんなに純真無垢で、煌めくような青年の命を、物のように扱う。それが、戦争なのだ。『ブギウギ』(NHK総合)第8週「ワテのお母ちゃん」では、スズ子(趣里)の最愛の弟・六郎(黒崎煌代)に赤紙が届く。11月22日放送の第38話では、出征前に東京のスズ子の下宿を訪ねた六郎が、「自分が社会に認められた」というそれまでの無邪気な喜びから一転、まだ20歳そこそこの青年の正直な胸の内をあらわにする。六郎の吐露は、当時出征していった若者たちの誰もが、口にせずとも密かに抱いていた気持ちに他ならない。

 スズ子が言うところの「ちょっとトロい子」で「アホ」の六郎は、現在なら何某かの診断名がつくところなのだろうが、作中では六郎を何かにカテゴライズすることを避けている。もちろん当時の様子に沿って、なのだろうが、これは作り手がドラマに込めた「願い」のようにも思える。

 「ちょっとトロい」六郎も、映画の夢も銭湯の仕事もどっちつかずで、妻のツヤ(水川あさみ)に甘えっぱなしの梅吉(柳葉敏郎)も、毎日タダ湯に浸かりにくるアホのおっちゃん(岡部たかし)も、記憶を失い梅吉に拾われてきたゴンベエ(宇野祥平)も、いわゆる「世の中の規範」の枠に収まらない人物だ。

 そういう人たちが蔑ろにされることなく、ラベリングされることなく、その人らしく生きて、「自分の居場所を見つけられる世の中になればいいな」という願いが、このドラマには込められている気がしてならない。決して、「なるべき!」という居丈高な口調ではない。「なればいいな」という、つつましやかで、けれども切なる願いが、本作の下敷きになっているように感じる。

 そんな、作り手の「願い」を託された人物の1人である六郎は、子どものころから純粋で心優しく、とても共感力が高い。スズ子(少女時代:澤井梨丘)の幼なじみ・タイ子(少女時代:清水胡桃)が想いを寄せる同級生にはっきりと自分の気持ちを伝えるのを目にした六郎(少年時代:又野暁仁)が言った、「胸がチクゥ〜したで」というひと言が忘れられない。

 香川で出生の秘密を知り、「お母ちゃ〜ん!」としゃくりあげて泣いたスズ子に「いや、ワイ六郎やで」と、とぼけて返しながらも、「姉やんがいる場所はここやで」と言わんばかりに、しっかりと抱きとめた六郎。東京行きに反対する母・ツヤの態度に悲しむスズ子に、「ほんまの家族やから、きっとお母ちゃん、めちゃめちゃ寂しいねん」と言った六郎。

 六郎の言葉はいつだって自然で真っ当、シンプルにして、本質をついている。花田家の中で六郎は、「家族のあり方」をまっすぐに照射する存在だ。

 病状が思わしくないツヤは、六郎の頭を愛おしそうに撫でながらこう言った。

「六郎、あんたは、どんくさいことなんかないで。ほんまはみんな、あんたみたいに素直で、正直になりたい思てんねんで。ワテもや」

 そんな六郎が思わず口にした「死にとうない」という、人間の最も根源的な欲求が、観る者の胸をえぐってくる。そして六郎の存在が、子どものように無垢な青年を人殺しに向かわせるという、戦争の凄惨さをも照射している。

 「日中戦争で徴兵される、心優しくて、ちょっとトロい青年」という六郎の設定に、『カーネーション』(2011年度後期)の勘助(尾上寛之)のことを思い出した朝ドラファンも多いのではないだろうか。勘助と同じように「心優しくて、ちょっとトロい」からこそ見る戦地の地獄と、心に負ってしまう傷。六郎のこれからを想像してしまい、いたたまれない気持ちになる。

 ツヤの病状に取り乱して声を荒らげてしまった梅吉に対して、六郎が見せた絶望と虚無の表情が目に焼きついて離れない。「もう一生お父ちゃんと口きかんとこ思た」「大きい声好かんねん」「怖いの好かんねん」と漏らす六郎が、戦地でどんな目にあうのか、思い描けてしまって辛い。どの朝ドラでも、若者が戦争に駆り出されるエピソードは辛い。そして、その辛さを忘れてはいけない。二度と戦争を繰り返してはならない。

 六郎を演じる黒崎煌代の芝居がとにかく素晴らしい。小手先の演技や作為を飛び越えたところにある「六郎としてそこに生きている」「在る」という作業をやってのけるこの俳優、『ブギウギ』がドラマデビュー作というから驚きだ。我々は今、とんでもない名優誕生の瞬間を目の当たりにしているのかもしれない。

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