『ジョン・ウィック:コンセクエンス』の“引用”を読み解く 神聖なモチーフや絵画の意味

※本稿には『ジョン・ウィック:コンセクエンス』の結末に関するネタバレが含まれています。

 前作のラストから8カ月が経った冬のニューヨークで、ある男の拳が叩きつけられる音が鳴り響く。妻に先立たれ、彼女から遺された子犬を失い、気がつけば多くの人間を殺し続ける男、ジョン・ウィック。彼の物語にとって一つの幕切りとなった『ジョン・ウィック:コンセクエンス』は、シリーズ最大規模のスケール、美しい撮影、華麗な戦闘のコレオグラフィー、そしてショットの中に潜む様々な引用などを含め、とにかく芸術点がこれまでの作品、ひいてはアクション映画の中でも非常に高い作品だ。

 大衆向けの娯楽作品というイメージが強く(実際にそうではあるけれど)、アクションというジャンル映画はアカデミー賞などの賞レースの現場でなかなかシリアスに受け止められない。何年も前からスタント部門の設立を求める声があがっているが、いまだに実現もしていない。しかしエミー賞では今年から新設されたり、『ジョン・ウィック』シリーズを手がけるチャド・スタエルスキ監督もアカデミー側と話し合いをしたり、前向きに物事は進んでいる。『ジョン・ウィック:コンセクエンス』はまさに賞レースシーンの現状に一石を投じるような作品だ。そんな本作でスタエルスキ監督は様々なモチーフ用いている。そんな本作における引用の数々について、映画の内容とともに振り返りたい。

『神曲』地獄篇の一節から始まる本作

 本作は、ジョンを匿うバワリー・キングの壮大なスピーチから始まる。演じるローレンス・フィッシュバーンの威風堂々とした立ち振る舞いが、何を言っても偉大なことに聞こえるような説得力を持つ中、彼はダンテの『神曲』の地獄篇の一説を語っていた。

「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」

 ジョンがトレーニングをしている部屋の門を開けるときにキングが言ったこの言葉は、『神曲』地獄篇に登場する地獄の門に記載されたものだ。サンドロ・ボッティチェッリによる地獄の図が有名でもあるが、この地獄篇は、作者であり主人公であるダンテが暗い森に迷い込み、地獄に入り、門を潜って底まで降りる過程で様々な種類の地獄を目の当たりにする物語だ。それは、これまで首席連合や暗殺者に追われ続けてきたジョンの地獄巡りそのものを意味し、本作でもその旅路を歩むことを示唆している。そして観客である我々に対しても、“一切の希望”……つまりジョンの生還に対する希望は捨てることを勧めているのだ。興味深いことに、この地獄篇でダンテが巡る死後の罰を受ける罪人たちの罪の中で最も重いとされているのが「裏切り」なのだ。その感覚はルールを重んじる『ジョン・ウィック』の世界に重なり、実際にジョンは2作目でそれを破ってしまった(コンチネンタルホテル内での仕事)。地獄篇で第九圏にあたる裏切り者の地獄は氷地獄であり、『コンセクエンス』の舞台設定が凍るように寒いニューヨークの冬というのもまた面白い。つまり、“報い”という副題が当てられた本作はジョンが自ら犯した罪に向き合う地獄巡りでもあり、クライマックスシーンで決闘のルールを無視した愚かなグラモン伯爵(ビル・スカルスガルド)も、その「裏切り」の報いを受けることになったのだ。

 本作は他にも聖書的なイメージが多く、ドニー・イェン演じるケインの名前も「カインとアベル」から引用されているように感じる。彼はジョンのことを「兄弟」と呼び、この2人は映画の中でパラレル的な存在として印象深く描かれた。教会も映画の中で何度も登場し、ジョンが最後に力尽きる場所が教会の前というのも神聖的だが、階段で力を落とす彼のイメージは『カウボーイビバップ』の最終話で描かれた主人公・スパイクの死そのものだ。スパイクが終盤でビシャスと一騎打ちして勝つが、すでに満身創痍でかなりの傷を負っていたことから倒れてしまう点も、物語の中で“ハッキリとは”その死が確認されていない点も同じである。

 何を隠そう主演のキアヌ・リーブスは『カウボーイビバップ』の大ファンで、主演を演じることを断言し、実際に2009年頃、実写映画化のプロジェクトも進行していた。しかし、その後資金難を理由に企画が難航したり、リーブスの代わりにジョン・チョーがスパイク役に抜擢されたりで出来たのが、あのNetflixシリーズ。ある意味、本作でジョンがスパイクと同じ運命を辿ったラストは、リーブスによるリベンジショットでもあるのだ。

 階段といえば、忘れてはいけないのが本作の目玉シーンの一つ、サクレ・クール寺院に続く222段の階段。ここを何度登っても転がり落ちてしまうジョンは、まさにギリシャ神話におけるシーシュポスなのだ。「シーシュポスの岩」でも知られる話では、神を2度欺いた罰としてタルタロスで巨大な岩を山頂まで持ち上げるように命じられる。しかし、彼があと少しで山頂に届きそうになると、岩が重すぎてそこまで転がり落ちてしまい、また持ち上げていかなければいけない……という苦行が永遠に繰り返されるのだ。ジョンはこれまで、自分の死を2度欺いている(一度は引退の時に、もう一度は『ジョン・ウィック:パラベラム』のラストで)。つまりこれは、ジョンが首席連合から受ける果てしない徒労を意味するシークエンスなのである。

 聖書の話に戻るが、映画の冒頭の砂漠シーンも見逃せない。3人の首席連合を馬に乗って追い詰めるジョンを含めたイメージは「ヨハネの黙示録」における4騎士を思わせる。そしてジョンが体現するのは、彼らにとって(そして多くの敵にとっての)「死」なのだ。この砂漠シーンへの転換は『アラビアのロレンス』のワンシーン……ロレンスがマッチの炎を息で吹き消すシーンのオマージュになっており(本作ではキングが同じことをしている)、撮影も『アラビアのロレンス』のロケ地で行われている。マッチの炎が消えて、砂漠の地平線から日が登る。「新しい何かの始まり」を思わせるその朝日は、ジョンにとっての新たな戦いを意味していた。朝日と夕日は本作で何度も印象的に映されているが、特にラストシーンで決闘を終えたジョンを照らす朝日は、映画の冒頭とは対照的に新しい人生……つまり来世を想起させるのであった。

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