『ザ・ホエール』の忘れられるべきではない一面 メイキングが照らし出すもうひとつの愛

 人は死ぬ間際まで愛を求める。たとえ最愛の人に先立たれて絶望の淵にあり、さらには自分の病状も悪化の一途をたどり、死に瀕しているとしても。『ザ・ホエール』の主人公チャーリー(ブレンダン・フレイザー)は体重272キロ。アパートに引きこもり、ソファから移動することさえ容易ではない。同性愛者の彼は、愛するボーイフレンド、アランと死別したショックで過食症となり、身体が肥大化し、鬱血性心不全も深刻な状況にある。チャーリーの最期の5日間を描くこの映画は、にもかかわらず悲劇ではない。チャーリーの肥大化は大きな悲しみゆえだけれども、しかしそれでも、彼は愛した。アランを愛し、娘を愛した。だからこれは死期の記録である以前に、愛の証明の記録なのである。

 単刀直入に言うと、この映画の最も注目すべき点は、主演をブレンダン・フレイザーが務めていることにある。この名前を聞いてピンとくる人はことのほか多い。アドベンチャー活劇『ハムナプトラ』シリーズ(1999〜2008年)のヒーロー、リック・オコーネル役での彼は今なお愛され続けている。しかし、その後は健康悪化や家庭の破綻などが重なり、表舞台から遠ざかった印象がある。

 フレイザーにまつわるニュースが世界中を駆けめぐったのは2018年2月、セクシャルハラスメント被害の告白によってである。ゴールデングローブ賞の主催団体の会長からセクシャルハラスメントを受け、それが原因でうつ病を患ったとインタビューで話し、この前年秋からの#MeToo運動の高まりを見て、被害を明らかにする勇気をもらえたと語った。そして彼の告発が引き金となって、ゴールデングローブ賞主催団体のかねてからの男女差別、同性愛差別、人種差別の傾向が次々と明るみになり、ついに2023年6月、ゴールデングローブ賞の売却に至った。

 これに先立つ2023年3月、アカデミー賞の授賞式会場には、晴れやかな表情のブレンダン・ブレイザーの姿があった。『ザ・ホエール』の体重272キロ男の熱演によって、彼は見事、主演男優賞を受賞し、ハリウッドの表舞台に返り咲いてみせた。このような波乱万丈の運命を、『ハムナプトラ』のあの屈託なきヒーローとして躍動した当時、誰が予想できただろうか。巨体に変身するための全身特殊メイクに毎日5時間をかけて作り上げていったチャーリーという登場人物の、悲しみ、苦しみ、愛、慈しみなどの万感のエモーションがじわりと滲み出たすばらしい演技の陰に、私たち観客は勝手ながら先述のようなブレンダン・フレイザーの苦難の足取りも垣間見てしまう。

 もちろん監督のダーレン・アロノフスキーも、原案&脚本のサミュエル・D・ハンターも、ブレンダン・フレイザーのキャリア上の経験ゆえに彼をキャスティングしたとは言っていない。とはいえチャーリー役のキャスティングには10年もの歳月を要している。そのあいだ何人もの候補が挙がっては消えていった。コロナ禍のもとでごく慎重に進められた『ザ・ホエール』の製作がようやく完成に漕ぎつけたとき、アロノフスキー監督が2012年にニューヨークのブロードウェイの小劇場「プレイライツ・ホライゾンズ」で原作舞台を観て映画化を決心してから、10年という時間が流れていた。それはブレンダン・フレイザーがチャーリーになるための10年だったとも言うことができる。

 作品は、チャーリーのアパート内と、ほんの申し訳程度の外ロケだけで成立している。そういう意味ではまさしくブロードウェイの小劇場「プレイライツ・ホライゾンズ」の息吹を生々しく感じとれる作品に仕上がっている。このたびリリースされるBlu-rayの映像特典として収録された『“人間は すばらしい” 「ザ・ホエール」 メイキング』は、同作の成立プロセスやバックグラウンドをめぐる有益な知見が得られる必見のドキュメンタリーとなっている。外ロケを増やしたり、登場人物を増やしたりといった映画向きのアレンジはあえて施さなかったそうである。アロノフスキーは語る――

「登場人物の1人はほとんど動かない。それをうまく見せる方法として提案されたのは、ソファを壁際に置かないことだった。アパートメントという狭い空間ではソファはたいてい壁際にあるが、私たちは真ん中に置いた。これで役者の位置を決めやすくなった」

 ソファが居間の真ん中に置かれ、そこで主人公がどっかりと空間を占有する。大学のオンライン講師として務めるリモート授業もこの同じ場所でおこなわれる。暴飲暴食も、思い出の反芻もすべて、このソファが宇宙の中心となる。玄関から何人かの人々がアパートメントを訪ねてきて、彼を気遣ったり、挑発したり、嵐を巻き起こして立ち去っていくが、彼ら彼女らはソファに居座るチャーリーという恒星のまわりを周回する惑星のような動きをたどる。さらにそこにドリー(台車)で移動しながら人物を画におさめるカメラの動きが加わり、不動の恒星と動的な惑星の運動のアンサンブルによって、作品には独特の画面リズムが生まれている。

 上映時間のうち最も問題とされるのは、第一にチャーリーの体調悪化の推移であるが、その次に時間をかけて描かれるのは、チャーリーがアランと駆け落ちした際に捨てた妻子、特に家を出た時にはまだ8歳だった娘のエリーとの関係修復という課題である。チャーリーにとって最後の願いは、心を閉ざしたエリーに幸福な人生を取り戻してほしいということ。「今さら父親ぶられても」と反抗するエリー。それでも父は「人生はすばらしい」と説くのを諦めない。そしてきわめて美しいラストシーンに向かって、父娘の魂のぶつかり合いがシーンごとに熱を帯びていく。

 しかし筆者としては、父娘の相剋ドラマの裏で、もうひとつの愛の在処が月影に隠れていくプロセスにも心を寄せておきたい気がする。チャーリーとすでに他界しているアランは運命的な恋人同士だった。確かにそれは不倫愛であり、妻と8歳の娘を捨てた罪は重い。そうだとしても、チャーリーとアランの愛がアメリカの地方都市の閉塞性と宗教的観念によって全否定されたという、この映画のもうひとつの痛切な一面も忘れられるべきではない。

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