『君たちはどう生きるか』で叩き割られた“宮﨑駿の石” 悪意に背を向けず生き抜くために

 宮﨑駿による10年ぶりのスタジオジブリ新作映画『君たちはどう生きるか』が公開中。公開4日間で興行収入は21.4億円を突破し、映画業界に大きなインパクトを残す作品となったことは言うまでもない。しかし、肝心の“本作が描きだしたものの答え”を読み解くのは非常に難解だ。

 本作は、自身の母を亡くした経験や空襲体験などの宮﨑監督の自伝的要素を盛り込んだ作品である。重厚なストーリーであるが故に、全てのモチーフを隅々までラベリングして意味づけすることは容易ではないが、近年のスタジオジブリを暗喩しているとも取れる表現も含んでおり、多くの映画ファンや批評家が本作の解釈を巡って物議を醸している。本稿では作中でも印象的だった“石”をキーワードに、作品に託されたメッセージを紐解いていきたい。

 端的にいえば、『君たちはどう生きるか』は石に始まり、石に終わる物語とも捉えられる。序盤、主人公の眞人は同級生と喧嘩をしてできた怪我を隠すように、自ら頭を石で叩いて傷をつけた。眞人は残った傷跡を「この傷は自分でつけました。僕の悪意の印です」と大おじに説明する。眞人が自ら自傷行為に走った理由を明確に説明する場面はなかったが、この言葉から「父母にかまってほしかったから」「父親を焚き付けて同級生に仕返しをしたかったから」など、さまざまな悪意が絡んだ理由がきっかけと考えられる。また、“嘘つき”なアオサギを眞人の潜在意識と見るなら、眞人が夏子に対してそっけない態度を重ねていく(悪意のある行動を重ねる)とともにアオサギもより饒舌な化け物として、成熟していくようにも見えるのではないか。

 さらに石を巡る終盤からラストの展開にかけては、宮﨑駿が本作を通じて届けたかったであろうメッセージがより強く表れる。大おじは眞人に「13個の積み石を積んで平和な世界を維持すること」を求めた。この大おじの存在を宮﨑駿自身を重ね合わせた存在と考えると、積み石は本作を含む監督が手がけたスタジオジブリ13作品のメタファーとも言えるだろう。

 一方で、宮﨑駿がフィクションとして描き続けてきた13作品の積み石がインコ大王に叩き切られてしまう場面は、皮肉にもフィクションが救済できる現実の限界を語っていると見た。しかしこれは決してマイナスな意味ではなく、「フィクションばかりに目を向けて自分で道を選択していくことを放棄してはならない」というメッセージに近いと筆者は捉えている。宮﨑駿が過去のインタビューにおいて、作品で描いてきた平和について次のように語っているからだ。

「『世界の問題は多民族にある』という考え方が根幹にあると思っています。ですから少なくとも自分たちは、悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません。『あらゆる問題は自分の内面や自分の属する社会や家族の中にもある』ということをいつも踏まえて映画を作らなければいけないと思っています」(※)

 眞人が冒険の中で見てきた景色を思い返すと「悪意の存在しない純粋無垢な世界を作りたい」という大おじの願いは、下の世界で完璧に叶っていたとは言い難い。自分たちの権利のみを主張するインコたちや戦争で傷ついた兵士を彷彿とさせるペリカンなど、戦時中の上の世界と変わらない構造が下の世界にも広がっているように思える場面も多々あった。だからこそ、大おじは眞人に彼の意思で一から平和で理想的な世界を作り直してほしかったのではないか。

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