宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 第2回 『魔女宅』から『もののけ姫』まで

『紅の豚』共産主義者かつ資本主義者というハイブリッドの自嘲

『紅の豚』© 1992 Studio Ghibli・NN

 赤い豚、つまり、共産主義者かつ資本家というアイロニカルな『紅の豚』というタイトルは、この時期の宮﨑駿の思想の反映と見ることができる。「オレは最後の赤になるぞ」(『風の帰る場所』p85)という感じだったという発言まである。本作を、宮﨑は、「個人的映画」と語っている。それは、複雑な矛盾や揺れに見舞われていた、当時の彼のアイデンティティのあり方や思想を象徴する言葉のように思われる。

 1989年から、冷戦が崩壊していたことも、宮﨑に大きな影響を与えていた。イデオロギーによる二項対立的な世界認識が、信頼性を失ってくる時代の状況である。そして、『紅の豚』に大きな影響を与えたのは1991年から始まったユーゴスラビアの紛争であると宮﨑は語っている。ちょうど作品の舞台になっているアドリア海の、イタリアの反対側にはユーゴスラビアがある。

「ユーゴスラビアの海岸を舞台にしたとき、ちょっと油断してて、あそこで民族紛争があったとしても、もう大したこと起こらないと思ってたんです。それが起こっちまったもんですからねえ、これは……」(『風の帰る場所』p85)。

 その内戦の影響を受け、短編の予定だった企画は、長大化していき、ついに劇場公開作になっていく。「その後また民族主義か」「第一次大戦の前に戻るのか」っていう「また」が「一番しんどかった」(『風の帰る場所』p85)。

 何がしんどかったのか。

「もう懲りてるんじゃないかって思ってたんですよね、つまり僕らが戦争に懲りてるように、でも、やっぱり懲りてないんですね」「新しい憎悪もちゃんと生産されるわけだから。我々も同じようなことをすぐやるなっていう感じも含めて、ちょっとうんざりしたですね。民衆じゃなく、ならず者がやってるんだと思いたいけど」「どうもそんな単純なものじゃないなっていうね」(『風の帰る場所』p91-92)。

「安直に人を引っ張ることができるっていう手段にしかすぎなくて。/この近代っていうのは、実は民族主義っていうものによってどれほどお互いに痛めつけあったかわからないんだけど、まあ、全然学んでないんですね」(『風の帰る場所』p92)。

 日本が戦争を反省したようには、戦争や争いを反省していないこと。過去の過ちを何度も繰り返すこと、つまりは人類がなかなか進歩しないことに、「うんざり」しているのだ。

 ユーゴスラビアは、1963年から「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」であったが、冷戦終結と社会主義の否定の後に起きたのが、民族同士の凄惨な虐殺・民族浄化などであった。これは、『ナウシカ』(映画版)で描いたビジョンの正反対である。様々な異質な民族や種が、境界を超えて理解し合い、戦争を止める希望を『ナウシカ』は描いていた。そしてその手掛かりになるのが、日本のアニミズムであるという「民族主義」(占領しているトルメキアに対するレジスタンスなどがその過激な表現)があった。しかし、その民族主義こそが、殺戮や虐殺を招いた。これは、社会主義思想から、日本的な思想へと徐々に移行していた宮﨑駿に、大きな打撃を与える現実であっただろう。そして「我々も同じようなことをすぐやる」という危機感が芽生えたようだ。そうであれば、これまでの自作のようなメッセージを子供たちに発することは、危険なことなのかもしれない、と考えたであろう。

「自分も含めて、人っていうのは愚かなんだなあっていう、人間が考えてるより人間は複雑で、同時にそんなに賢くないんだなっていうことをうんざりするほど思い知りました」(『風の帰る場所』p90)。

 だから『紅の豚』では、「聖人君子としては生きられない」「一定のバカもやろう」という内容を「自分がこれからどうやって生きていくか」(『風の帰る場所』p90)の問題への答えとして描いた。本作以降は、自他の愚かさを、宮﨑は受容していく(しようと努力する)ようになる。

『紅の豚』© 1992 Studio Ghibli・NN

 宮﨑は若いころ「日本というのはなんて愚かな国だろう、アジアの国の中で日本が一番愚かだろう」と思っていたが、その考えを変える。

「実は隣のコリアも、中国も、シンガポールもフィリピンもマレーシアも、みんな同じようにバカだってことが分かった」「日本だけがバカな時の方がずっと気が楽だった。このままでは人類がバカなんだと思わざるを得ない」(『折り返し点』p105)

 このように『もののけ姫』がベルリン国際映画祭で上映された際に海外の記者に答えているが、問題は「日本」ではなく「人類」規模の愚かさをどう受容しコントロールするのか、に移っていくのだ。

 そして、ダメなのは「現在」だけではないと、「愚かさ」が空間的にも時間的にも広がっていく。そして、その達観が彼を楽にしたという。日本映画大学元学長の佐藤忠男との『もののけ姫』の際の対談でこう言っている。

「何も突然日本人がダメになったわけじゃなくて、けっこうずっと同じようなことをやってきたんじゃないかと。そう思ったら気が楽になるんですよね(笑)まだやり方を変えられるのではないかと。少し冷静になれるんです。(…)ぐしゃぐしゃになりながら、この島国で生きて行こうと決めるしかなかろうと」(『折り返し点』p67)

 これはどういうことなのだろうか。

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