唐田えりかの視線の先は? 『真夜中のキッス』佐向大監督が描き出す“逃避行”からの逃避

 深夜のファミレス。さっきまで血に濡れた手で車のハンドルを握っていた男と、血塗れの服をパーカーに着替えたボサボサの髪のままコーヒーをかき混ぜる女。明らかにただならぬ雰囲気のカップルは、夜の闇に身を隠し明日をも知れぬ逃避行を……始めない。口を開いた男はグダグダと無責任な後悔の言葉を並べ、挙句「言った言ってない」というしょうもない口論へと発展し、しまいには自首しよう(お前の方が罪は重いけどな)などと言い出す始末。そして女は叫ぶ、「全部ヤダ!」。

 唐田えりか演じるユイのこの叫びと、その後不意に彼女が振り返る動作で、「真夜中のキッス」は真に幕を開ける。ユイはこの後、一度たりとも怒りや恐怖や悲しみといった感情を爆発させることはないのだが、このたった一度の苛立ちの叫びには至極もっともな理由がある。「だから言ったのに……」と責任をなすりつける男の言葉、しかも話の端々から実行犯をユイに押し付けたことさえもわかるこの情けない男の偉そうな態度、誰しもどこかで見たことがあるような光景だ。作品のオープニング以前に彼らが犯した犯罪は、法の一線を越えることで彼らの住む場所を非日常に変えたのではなく、うんざりするほど見飽きた日常と同じような凡庸さで行われたに違いない。ファミレスに入る前、車の後部座席で胸にべっとりと血痕のついた服で横たわるユイは、まるで死体のように見えた。法を侵したくらいではびくともしない、情け容赦ないほどに情けないこの日常に疲れ切った自分自身の身体を、叫び、振り返ることで、彼女は生き返らせる。

 共犯者ユウジを置き去りにしてユイが始める逃避行は、まるで逃避行という概念自体から逃避するかのようで、どこが目的地なのか一切わからない。彼女はユウジから逃げているのか、警察の捜査の手から逃げているのか。5カ月間連絡を無視していた元カレ(?)琢磨の家に上がり込み、その晩初めて会ったのに知るはずのない琢磨の家の前で待ち伏せしている男にノコノコと着いていくのは、日常なのか非日常なのか。そんな観客の困惑をよそに、今度はパーカーをマルチカラーのボーダーニットに着替えるように、目の前にいる人間に合わせて言葉もキャラクターもコロコロと変えて、ユイは環境に順応していく。彼女は控えめに言っても、嘘つきで身勝手で、とても褒められた人間性の持ち主ではない。だが、嘘をつき人によって態度を変えるのはなにもユイだけではないのだし、曖昧・嘘・無意味に彩られた言葉が飛び交うのは佐向作品の常である。意味が横滑りして、同じやりとりが、まったく別のシチュエーションで反復される。ユイが服を着替えるように。

 空虚な言葉の堂々巡りの中を、ユイは誘惑や媚びのような手管をも用いて渡り歩くのだが、彼女の目的は対話相手の説得でも操作でもない。無意味な会話の頃合いを見計らい、その場から姿を消すことだ。どこまでも続く退屈なやりとりの循環からドロップアウトすること。しかしそれは容易には達成されず、うまく姿を消したところで、また姿を現した別の場所で同じようなやりとりの中に絡め取られていく。

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