服部文祥が語る『帰れない山』 イタリアに住む山仲間・ブルーノとピエトロに寄せて
ブルーノはイタリアの山仲間でよく知っている。私のことでもある。
ピエトロのことももちろんよく知っている。私のことでもある。
世界中に登山者がいて、みんな仲間で、生+死=命ということを知っている。
ハイカーばかりの有名な山頂を離れて、岩のゴツゴツしたエリアに入ると、いつも少しホッとする。すれ違う登山者はごく少数だが、その誰もが、自分の意志と判断でそこにいることを、穏やかな表情の奥に秘めたまなざしに宿しているからだ。どこかで聞いたことがある既成の価値観でそこにいるのではなく、自分がやりたいことを自分で見つけて自分の責任で行動を起こした本物の登山者だ。
ハイカーとは軽く挨拶をしてすれ違うか、抜き去るだけだったのに、そんな山ヤ(編集部注:山を熱心に愛する登山家)に出会うとついつい、ルートの状況や残雪の具合、徒渉点の水量などの情報を交換するために話し込んでしまう。
同じルートを登ったことがわかったときは、核心部のホールドや、体の振り方を確認し合ったりすることもある。どこに住んでいるの? という話から、名の知れた山岳会や大学山岳部の出身であることが判明し、接点のありそうな旧知の山仲間の名を口にすると、共通の知り合いであることが多い。山登りを真面目に長く続けていると、こうした「初めて出会うのに古い山仲間」ということがあるのだ(けっこう多い)。逆に、素性を探ってもひとつも接点のない若い登山者だったら、がぜん興味が湧いてきて、ついつい質問攻めにしてしまう。孤独と不安におびえながら、心の奥では自分を信じて、闇雲に山を登っていた昔の自分を見ている気がするのだろう。昔の自分に会っているという意味では、これも古い山仲間ということになる。
ひと目で同類とわかる「山ヤ」は近頃めっきり少なくなった。それでも時々山で出会うことから類推するに、まだしつこく生息はしているようだ。そんな山ヤは本場アルプスのイタリア側にも健在だ。
『帰れない山』の2人の主人公はちゃきちゃきの山ヤではないが、やっぱり、2人ともずっと昔から知っている私の山仲間である。何せ、ブルーノは私と同じく、山奥の廃屋を直して籠っている。ピエトロは私と同じく山の生活を文字列にして本を出している。2人から適宜要素を取り出して一つに合わせれば、そのまま私ができあがる。
本作の原作が翻訳されたときから愛読者の一人だった。以来、原作者であるパオロ・コニェッティ(ピエトロのモデル)の著作はすべて追いかけているし、実は共通の知り合いもいる。会ったことはないが、パオロはまさに山と文筆の仲間である(と独り合点している)。その上、私が様々なところで押しに押しているイタリアの巨匠、マリオ・リゴーニ・ステルンのサポーターという共通点もある。