『イニシェリン島の精霊』に込められた、世界を救う一抹の希望 真の“アイルランド魂”とは

 コルムは、パードリックの退屈さにうんざりしていると主張しているが、パードリックの妹(ケリー・コンドン)に至っては、島を出た経験から外の世界を知っていて、さらに書物を読むことを趣味としていることから、兄も他の島民も、そしてコルムですらも、知的レベルでいえば大差ないように見えるらしい。知識という通貨の基準でいえば、島のどの男も彼女には相応しくないのである。その意味で、彼女はコルム以上に孤独感を味わっているのだ。さらに彼女は、島民たちの悪意に傷ついたことで、兄を置いて再び島を出ることを決意する。

 そして、親の虐待に遭っていて、パードリックやその妹を慕っていた青年(バリー・コーガン)もまた、次第に暴力的な言動を始めるパードリックから距離をとることになる。その頃になると、もはやロバや馬しか、パードリックの周りには残っていない。

 ここで発生する疑問は、そもそもパードリックなる人物は、元から“善良”だったのかということだ。彼が本当に善良ならば、コルムや妹の進もうとする道を、甘んじて受け入れ、後押しするはずなのではないか。彼が冒頭で見せた幸せそうな姿や、“完璧な日常”の裏には、コルムや妹の犠牲があったのではないのか。逆に、善良さに価値などないと主張しているコルムの方が、警官に殴られたパードリックを抱き起こし助けるなど、善良な一面を見せているのである。

 マーティン・マクドナーは、もともとイギリスの演劇界で頭角を表し、アメリカ映画の監督としても注目を浴びるようになった人物。そのルーツはアイルランドにある。彼は、アイルランドのアラン諸島を舞台として、土地の人々を風刺的に描いた戯曲「アラン諸島三部作」を書いていて、本作『イニシェリン島の精霊』は、その三作目にしようと書き進めながらも上演せず放置していた内容を、新しく書き直したものだという。だから作中で、パードリックを含めた、島に長く住む人々を、ある種批判的な視点で描くことは当然だともいえる。

 アイルランドを題材にしたアメリカ映画といえば、代表的なのはジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の『静かなる男』(1952年)だ。こちらは打って変わって、基本的にアイルランドを美しく善意に溢れた場所として描いた、やはりアイルランドをルーツに持つ監督の思い入れがたっぷりと入った一作だった。フォード監督は、それまでにアメリカ人の勇気や善意を描いてきたが、その源流として、素朴で善良な“アイルランド魂”があるのだと示してみせたのだ。

 このようなフォード監督の姿勢は、信念を曲げない人物と小さな町の閉鎖性を描いた『スリー・ビルボード』を撮ったマクドナー監督とは、真逆ともいえるし、ある意味では相似であるともいえるのではないか。

 相似だともいえるというのは、たしかにマクドナー監督は、良い意味での“アイルランド魂”を、本作でも描いているからである。作中に登場する、アイルランドの伝承における、死を知らせる精霊「バンシー」が指し示したのは、真の意味での“優しさ”を持った、“イノセント”な存在だった。本作の物語は、その犠牲をもって、良い意味での“アイルランド魂”の終焉を提示したのではないのか。

 本作が描く、二人の男の諍いが破滅の道へと一気にエスカレートしていくという構図は、時代背景となるアイルランド内戦のような、大規模な暴力の連鎖とも重ねられるし、あらゆる争いにおける、避けるべき姿として設定されていることは、言うまでもないだろう。もし、それを止める希望があるとするならば、やはり他者に対する“思いやり”や“想像力”しかないのではないか。

 男たちは、終盤においてロバや犬など、自分よりも弱い存在に対する優しさを、かろうじて見せる。その選択こそが、地獄のような暴力の応酬の唯一のストッパーとなるのである。他者を排斥し、分断を深めるのでなく、そんな寛容な姿勢の方が、真の“アイルランド魂”なのだと、われわれも信じたいところなのだ。そんな、世界を救う一抹の希望を、二人の男の関係のなかに垣間見せたまま、本作は現実の状況をなぞった、苦みのある結末へと行き着くのである。

■公開情報
『イニシェリン島の精霊』
全国公開中
監督・脚本:マーティン・マクドナー
出演:コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、ケリー・コンドン、バリー・コーガンほか
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
2022年/イギリス・アメリカ・アイルランド/原題:The Banshees of Inisherin
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