元ナチス市民の証言に潜む“無邪気さ” 『ファイナル アカウント』は今観るべき一作

 『ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言』に登場する、ある人物は言う。

「戦争が終わると、大抵の人はこう言うんだ。1・“私は知らなかった”、2・“私は関わっていない”、3・“もし知っていたら絶対に違う反応をしていた”」

 無論、ここで言う「戦争」とは、ヒトラー率いるナチス政権支配下のドイツ「第三帝国」が起こした「戦争」であり、そこで問われているのは、人類史上最悪の戦争犯罪である「ユダヤ人大量虐殺」=「ホロコースト」の責任である。けれども、上記3つの反応は、ここ日本で今、連日のように報道されている政治家たちの発言と、まったく同じような気がしてならない。

 このように、ある特定の時代の「事件」に関する「証言」を「記録」したドキュメンタリー映画でありながら、それを超えて、今も変わることのない人間の「愚かさ」――自らの「保身」のため、ときにはその「記憶」すらも改変して、その「責任」から逃れようとする人間の「愚かさ」(それは無論、誰にとっても、他人事ではないだろう)を浮き彫りにするところが、本作の何よりの「驚き」であり、「凄み」と言えるだろう。

 母がウィーンからやってきたユダヤ人難民であり、祖父母がホロコーストの犠牲者であるという自らのルーツを、14歳で初めて知ったというイギリス出身のドキュメンタリー監督、ルーク・ホランドが、2008年から10年の歳月をかけて探し出し、自らインタビューを試みた「加害者」たちの証言の記録。それが本作『ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言』だ。

 「証言者」として登場するのは、「武装親衛隊」(国家の専属ではなくヒトラー直属の準軍事組織)のエリート士官だった人物をはじめ、強制収容所の警備兵、ドイツ国防軍兵士、軍事施設職員、収容所の近隣に住んでいた民間人など、10数名の高齢者たちだ。1914年生まれから1927年生まれまで――そのほとんどが1920年代生まれである彼/彼女たちは、その年齢からもわかるように、ナチス政権下においては、まだ10代だった元・少年少女たちが大半を占めている。よって、その「証言」は、責任のある「社会人」としての「証言」というよりも、どこか少年時代を懐かしむような「無邪気さ」が随所に垣間見えるのだった。

 もちろん、その後、自らの祖国がどういう結末を迎え、国際社会からどのような責任を問われたのかは重々知っているだろうし、それによって肩身の狭い思いもしてきただろう。けれども、その「記憶」が塗り替えられることはない。たとえ、それが「間違ったこと」だったと頭ではわかっていても、少年時代の「あこがれ」や「万能感」、あるいは「ヒトラー・ユーゲント」(ナチスの青少年組織)で過ごした日々の美しい「思い出」は色褪せず、反省や後悔の言葉の狭間に、突如顔をのぞかせたりするのだ。歴史的な「事実」だけでは、決して理解することのできない、それぞれの「真実」。

 そう、先ごろ、菅田将暉主演でドラマ化され、好評を博した田村由美の漫画『ミステリと言う勿れ』(小学館)の中に、こんな印象的な台詞があった。

「真実は人の数だけあるんですよ。でも事実は一つです」

 なるほど、そういうことなのだろう。そこからさらに敷衍して言葉を足すならば、「歴史」とは基本的には「事実」の集積である。けれども、そうであるがゆえにどうしても、そこからこぼれおちてしまうものがある。それは、その当事者たちにとっての「真実」だ。それが、正しいとか間違っているとかではなく(それを判断するのは、あくまでも司法の場なのだろう)、その時代を生きた当事者たちに、自らの言葉で、その「真実」を語ってもらうこと。それが、本作の「記録」としてのいちばん大きな意味であり、価値なのだ。

 よって本作は、思いのほか淡々と静かに進行していく。時折挟まれるインタビュアーの率直な問い掛けに、言葉を濁したり、論点をはぐらかせたりするようなことはあるけれど、概ねインタビューは、穏やかな雰囲気の中で行われている。無論、そこで語られる「証言」は、ときに差別的だったり、観ている者が思わず眉をひそめるような箇所がないわけではない。しかし、いかんせん相手は高齢者だ。今ここで彼/彼女たちを糾弾するのは、恐らくこの映画の本意ではないのだろう。

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