『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』が描いていた“アメリカのもうひとつのリアル”
1985年に公開され世界的大ヒットを記録した『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。すぐさま続編企画が立ち上がり、監督のロバート・ゼメキスと相棒の脚本家ボブ・ゲイル(2人揃って“ボブ&ボブ”)は、1作目に冗談半分で付け加えた「今度は未来へタイムスリップ!」というオチから直結する壮大なストーリーをひねり出すことになった。脚本は200ページ超まで膨らみ続け、最終的には二部作として『PART2』が1989年の冬に、『PART3』が1990年の夏に連続公開されることが決まった。
皮肉な悪意と生々しさに満ちた世界観
タイム・パラドックスという難しいSF理論をテーマにしながら、1作目のストーリーは「現在(1985年)→過去(1955年)→少し変化した現在(1985年)」という、シンプルな行きて帰りし物語の構造をもっている。しかし『PART2』のタイムスリップの経路は複雑だ。「現在(1985年)→未来(2015年)→激変した現在(1985年)→過去(1955年)」というスイッチバック的展開となり、続く3作目ではさらに100年前の過去(1885年)へとジャンプする。常に単純明快さが求められるハリウッド映画としては冒険とも言える構成だ。マイケル・J・フォックス演じる主人公マーティが歴史のねじれを正すため、各時代で挑むミッションも雪だるま式に増えていく。この複雑さこそが面白さである、という挑戦に作り手が賭けたのは「単に未来へ行って帰るだけの続編なんてつまらない」という確信と、続編を待ち望むファンはすでに1作目の時間SF理論を理解しているという信頼があったからだろう。
さらに、ボブ&ボブは「続編とは何か?」という命題についても考え抜いた。おなじみのキャラクターが別の舞台で別の冒険を繰り広げるという(マーティとドクが今度は未来で大暴れ!的な)定番フォーマットでは物足りない。1作目でクリスピン・グローヴァーが演じた、マーティの若き日の父親ジョージのように、キャラクターは作品を通して変化し、成長しなければならない。ならば今度はマーティの成長物語を描くべきだ。他人に「腰抜け(チキン)!」と言われると見境なく逆上し、それで人生の大事な岐路で過ちを犯してしまう……というマーティの性格描写が新たに付け加えられ、その弱点を自ら克服していく過程がサブストーリーとして織り込まれた。
ゆえに『PART2』のマーティは成長しきっておらず、最も不安定で危なっかしい。そんな状態の主人公が、さながら地獄巡りの様相を呈した複雑なストーリーのなかで必死に駆けずり回り、しかも物語は完結しない。この着地感のなさ、そして本編を覆うダークな雰囲気は、やはり『スター・ウォーズ』初期三部作の二作目にあたる『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』(1980年)に近い。実際、作り手たちも『PART2』では三部作の真ん中として『帝国の逆襲』を意識したと語っている。冒頭、デロリアンで未来に到着したマーティたちを迎えるのが、まるで闇夜のような暗雲と激しい風雨という不穏な導入部からも明らかだ。
マーティが目にする2015年の未来世界は、80年代の能天気なポップカルチャーと商業主義の行く末を見るかのような、カラフルで便利で薄っぺらい景観だ。自動車は空を飛び、3DCGの広告が氾濫し、80sノスタルジーを売りにした店が繁盛している(実際、80年代のアメリカでは甘い郷愁を誘う50年代カルチャーが大流行していた)。中年になった未来のマーティに非情にクビを言い渡す上司が日本人なのは、当時のアメリカ社会が日本企業の進出に恐々としていた現実の反映だ。ほかにも様々な未来ガジェット、アイデアが散りばめられている。
この未来パートのインパクトは絶大で、いまだに『PART2』といえば「マーティが未来に行く話」として記憶している人も多いはずだ。しかし、監督のゼメキスにとっては、この未来パートが「撮っていていちばんつまらなかった」という。「なんでも自由に発想できるからこそ面白みがない」というのがその理由で、確かにこのくだりは何もかもが思いつきのジョークでしかない。
それに対して、おそらく最も力を入れて描かれているのは、未来から帰ってきたマーティたちが直面する「変わり果てた現在」である。タイムマシーン=デロリアンの存在を知った宿敵ビフ(トーマス・F・ウィルソン)はひそかにそれを悪用し、巨万の富を築いていた。その莫大な権力と財力を誇示する巨大なタワーに見下ろされた街は、悪徳に染まり、荒廃しきっている。町の高校が瓦礫と化し、炎上しているカットは本編からは削られたが、そのビジュアルはまるで『ニューヨーク1997』(1981年)の一場面のようだ(ちなみに両作とも撮影監督はディーン・カンディ)。
本作公開は1989年なので、1985年はすでに近過去にあたる時代だが、そこに描かれたのはアメリカが辿ったかもしれない「もうひとつのリアル」……もし社会的モラルよりも私的利益を優先する資本主義社会の権化のような成金が、この国で巨大な権力を握ったとしたら、どんな状況が訪れるだろうか? という想像に基づく、皮肉な悪意と生々しさに満ちた世界観だ。
ビフのモデルとなったのはドナルド・トランプ
億万長者バージョンのビフのモデルとなったのは、自らの名を冠した高層ビル「トランプ・タワー」を建てた80年代を代表する実業家ドナルド・トランプ。言わずと知れた第45代アメリカ合衆国大統領である。劇中ではビフが政界にも強い影響力を持っていることも仄めかされ、実際にトランプ政権を体験してしまった21世紀のアメリカ人からすれば、まさに予言でしかない。さすがに大統領にまで上り詰めるとはゼメキスもボブ・ゲイルも予測できなかったようだが、警鐘としては十分だったはずだ(しかし悲しいかな、人間は忘れっぽい)。
クライマックスとなる第三幕は、マーティが歴史改変を食い止めるため、再び1955年に舞い戻る。ボブ・ゲイル曰く「最初の草稿では、クライマックスの舞台は1960年代だった。ロレインはベトナム戦争に反対するヒッピーになり、マーティは逮捕されて牢屋行きになる。だが、ボブ(ゼメキス)はそれに対して『悪くないが、もっと斬新なことをやろう。1作目の時代に戻り、別の視点から描くんだ』と言った」。大人気を博した作品を別の視点から描くという発想は、スピンオフ的であり、二次創作的でもある。しかも本作の場合、たった4年前に撮った自作を再び別視点で振り返るという大胆さだ。そんなオタク的発想を世界で初めてメインストリームの作品で実現したのが、ゼメキスだったのかもしれない。
また、ひとつの歴史/現実/物語を、異なる視点で語り直すことは、多くのゼメキス作品に刻まれた彼の作家性でもある。ザ・ビートルズの初訪米を熱狂的ファンの高校生たちの視点から描いたデビュー作『抱きしめたい』(1978年)から、その興味は一貫している。
激動の20世紀アメリカ史を純真無垢な主人公の視点から綴った『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994年)、無人島に漂着した男のサバイバル生活を当事者視点に絞って映し出す『キャスト・アウェイ』(2000年)、驚異の綱渡りチャレンジを観客に追体験させる『ザ・ウォーク』(2015年)、ミニチュア写真を撮ることで自分の空想世界に浸る男の脳内に迫った『マーウェン』(2018年)……。実際の出来事、実在の人物を描く場合でも、ゼメキスは「記録」や「史実」以上の何かを掘り起こし、それが現実ではなく個人のファンタジーであったとしても、当事者以外は誰も見たことのないビジョンを現出させようとする。それこそが映画にできるマジックだ、と信じているのかもしれない。