『親愛なる同志たちへ』に凝縮された国家と個人の戦い “ミクロな物語”を知る大切さ

 ロシアによるウクライナ侵攻が始まってから1カ月以上が過ぎた。この間、私たちはロシアとはどういう国家なのかを改めて考えざるを得なくなった。

 そんなタイミングで、ソ連・ロシアの近現代を生きた巨匠監督の作品が公開されるのは僥倖だ。アンドレイ・コンチャロフスキー監督の『親愛なる同志たちへ』は、ソビエト時代の1962年6月に発生した虐殺事件「ノヴォチェルカッスク事件」を題材にした作品である。

 この事件は、ロシア南西部のウクライナ国境近くの町ノボチェルカッスクで発生したストライキの鎮圧という名目で軍が投入され、公式発表では26人が死亡、非公式には100人以上の市民が殺害されたと言われる。共産主義下のソ連はこの事件を徹底して隠ぺいし、冷戦集結間際にようやく真実が明るみに出た。

 本作は、そんな事件に引き裂かれる母と娘の物語だ。市政委員会として体制に忠誠を誓う母親と、労働者としてストライキに参加した娘を通じて、国家のイデオロギーという大きな物語と母娘の小さな物語の衝突を冷徹なリアリズムで描いている。

国家への忠誠と娘への愛に引き裂かれる主人公

 ノヴォチェルカッスク事件は、1962年6月1日から3日にかけて起こった。ウクライナ国境にほど近いソ連南部のこの町では、物価高騰、食料不足で市民が苦しんでいるところに、追い打ちをかける給料大幅カットで労働者の不満が爆発、大規模なストライキに発展した。共産主義社会においてストライキの発生は異例のことであり、事態を重く見た当局は共産党幹部を派遣、さらに軍を投入して騒ぎの鎮静化をはかった。しかし、5000人を超える群衆のうねりは止まることなく、ついには軍が市民に向けて発砲。そのまま大規模な暴動へと発展してしまう。KGBのデータによれば、死者26人、投獄者数百人に及ぶが、非公式にはもっと多くの市民が犠牲になったとも言われている。

 本作の主人公リューダは、市政委員会の生産部門を担当するバリバリの愛国者だ。彼女はその立場ゆえに、表では食料不足で騒ぐ市民たちをよそに裏口から店に入り、悠々とたくさんの食料を受け取る。

 リューダは年老いた父と娘の3人暮らしだ。娘のスヴェッカは工場勤務者だ。この工場の賃金の大幅カットからストライキが発生し、母はそれを食い止める側で、娘はストライキに参加し労働者の権利を守ろうとする。リューダは「共産主義以外、何を信じればいいかわからない」とまで言う「愛国者」である。そんな彼女にとってストライキは国に盾突く行為だ。

 自身の愛国精神と娘を案じる母としての愛情がリューダを引き裂く。労働者に占拠された建物から脱出したリューダが見たものは、群による「粛清」だった。娘がストライキに参加していることを知っていたリューダは、銃弾が飛び交う広場に飛び出し、とてつもない惨劇を目の当たりにしてしまう。娘の安否を気遣うことは、国の正当性を疑うことになる。病院でも遺体安置所でも娘の姿は確認できない。リューダは娘を探すために、KGBの男とともに国家が封鎖している町の外へと向かう。

 全体主義者のイデオロギーに染まった市政委員会としての自分と、娘を案じる母親としての自分が衝突し、濃密なドラマとなって物語を推進していく。「国家VS個人」の戦いが個人の葛藤に凝縮されているのだ。

 人は常に複数のアイデンティティを抱えて生きている。彼女は、偉大な国家の一部であることに喜びを感じる一方で、娘を心配する一般的な母親でもある。たった1つのアイデンティティに染まってしまえば苦しい葛藤は抱えずにすむ。だが、そんな単純な存在になってはいけないのだと本作が描いている。

 マクロな物語としての国家イデオロギーとミクロな物語としての母娘の愛情。リューダが国家の動員の恐ろしさに気が付くことができるのは、娘への愛情があればこそ。国家に安易に動員されてしまわないためにこそ、ミクロな物語が重要なのだという構造が浮かび上がる。

 そんなミクロな物語を届けることが映画にはできる。この物語はそう主張しているかのようだ。戦争のような非常事態には、国家は動員のための大きな物語を語るものである。そういう時にこそ、映画のような文化は、カウンターとしてのミクロな物語を大切にできるからこそ、この世界に必要とされるのだ。本作はそんな文化の本義にとても忠実な作品と言えるだろう。

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