菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(後編):ジェーン・カンピオンは「過剰な男性性」を裁いただけなのか?

音楽に次ぐ、最初のミスリード、そして強烈な一発

 カウボーイ一行はまず娼館兼バーに入り、ショットグラスでジンを煽ろうとする。フィルは遅れてきた弟に「過剰な男性性」のジャブを食らわせる。

 カウボーイカルチャーについて行けないことを消極的にアピールするため、わざと遅れてきて、酒も飲もうとしない弟に対し、先に飲み始めてる全員の前で、赤っ恥をかかせるのだ。

 「25年前、お前はどこにいた? お前は、大学を落第したバカな若造だった」「俺たちに牧場経営を教えてくれた?」「ブロンコ・ヘンリーだ」「俺たち兄弟と、育ててくれた狼に」「ブロンコ・ヘンリーに」「乾杯」。フィルは弟に無理矢理飲ませる。

 このポテンシャルな暴力の一発目は、そのままミスリードに繋がっている。「兄は生まれた時からカウボーイ一筋、弟は男の世界をドロップアウトして大学進学を選んだ」と。

 10分30秒。一行は母子が運営する食堂に入る。店内にはロールピアノ(自動演奏ピアノ)があり、当時流行中のフラッパースタイルの女性を囲んだ、上品な服装の男性たちがいて、「女性が車を運転するなんて」と言って笑っている。フィルがイラついてるのが手に取るようだ。

 それは、給仕でもあるピーターに、ショッキングなほど炸裂する。清潔で背が高く、貧弱な体躯の美少年だからである。フィルは「頭の回転が早い=粗野なバカではない」としか言えない、周到でえげつないやり方でピーターに陵辱のパンチを食らわす。言葉嬲りの留めに、嘲笑的に、一度は褒めたペーパーフラワーに、冷淡に火を点け、それでタバコを吸う。

良質な「パンチドランク効果」

 この、ハラスメントに近い陵辱のショックが、鑑賞者をドランキングさせ、ここまでの記憶や、あらゆる予断を一時的に吹き飛ばしてしまう。

 フィルの苛立ちは止まらない。自動ピアノでチャールストンを踊り始める客に「ちょっと静かにしてくれないか」と言った後、立ち上がって「やめろって言ってんだ!」と激昂し、観客の肝を冷やし、憎悪を掻き立てる。

 筆者は昔日、『セッション』と『ラ・ラ・ランド』を酷評する際、「ちゃんとした脚本が書けないので、最初に物凄いショック描写を置き、いい加減なストーリーラインで時間を稼ぎ、最後に安っぽいどんでん返しを設置して、パンチドランキング効果でフラフラになった観客に<すげえモン観た>と思わせる。そういう意味ではどっちも同じ作品だ」としたが、本作でも類似の効果が生じる。

 フィルを直線的に(殺意を覚えるほどの)悪役にしてしまい、「マッチョ死ね」という塗りつぶしが脳内で起こった観客も多かろうと予想される。

 しかし、アカデミー賞最優秀監督賞受賞者史上、最年少男性監督であるデイミアン・チャゼルと、2人目の女性監督であるジェーン・カンピオンは、全くの別人である。本作の脚本は精緻であり、フィルの放つ男根のパンチは、コケ威しやKO狙いではない。複雑な人間ドラマを駆動させるためのエネルギーなのである。

 「さあさあ、ポテンツは悪ですよ。皆さんもこのカウボーイ野郎が憎くてしょうがないでしょう」というテキ屋の口上は、撒き餌に決まっている、「そのままこいつが裁かれたら、そんな硬直したくだらない映画ないよ」と、筆者はミスリードされ、先入観はさらに磐石になってゆく。

 映画は続き、フィルのポテンシャルはエンディング直前まで一貫するが、残りの登場人物は、第一印象からのキャラクターを徐々に変えてゆく。

 「男の世界、からドロップアウトした=が故に、<心優しき>」ジョージは、ローズと恋に落ち、求婚して、フィルの罵声をも恋情で振り切って、結婚してしまう。

 2人が恋に落ちる瞬間の描写は素晴らしい。ハイキングに来て、カップルダンスの心得があるローズが、ジョージにステップの手ほどきをする。カップルダンスでは、男性がリーダーであり、女性がフォロワーであるのに、不器用(=なので「心優しき」)なジョージは、女性であるローズにリードされる。

 音楽は一切鳴らず、ダンスを指導するローズの優しい声だけが静かに流れる。ジョージは感動して泣く。「いいもんだな。1人じゃないって」。ローズも泣き、ジョージを抱きしめる。劇中、唯一の、ロマンティックな音楽。ここでのローズの母性とコケティッシュは、自信に満ちている。

 そして、この美しさは一瞬で瓦解する。ジョージは、結婚パーティーに知事夫婦を招待し、ローズが「昔、(サイレント)映画館で、伴奏にちょっとピアノを弾いていたことがある」というローズの言質により、メイソン&ハムリンのフルグランド(当時のアメリカの最高級品)を購入して家に置く。

 ジョージの、フィルによって抑え付けられていた、が故に肥大した権威主義が真綿で首を絞めるようにローズを貶めて行く。「心優しき」ジョージですらポテンツ野郎なのである。そして、ハイキングでは自信に満ちた誘惑力でジョージをリードしたローズは、内在してる強烈な自負心を露呈してしまう。

 ジョージもローズも、知事夫妻の、嫌味なほどのユーモアとウイットに富んだ、知的で社交的なパーティートークに追いつけない。フィルの言う通り、大学を留年したバカなのだ。ジョージはフィルにパーティーへの出席を嘆願する。

 それは一見「家族がいないのは不自然もしくは恥だから」である。しかし、内在しているのは、「気の利いた会話で対応できるのは、一流大学を出たインテリであるフィルだけだ」という予断である。「生まれた時からカウボーイ一筋だったフィル」というミスリードが逆転する(筆者は驚愕し、先入観をさらに強めたのは言うまでもない)。ジョージは劣等感を他者によって払拭してもらいたがっているのだ。

 そしてジョージは、そのプランをローズにも向ける。自己の劣等感を、美しき、愛する妻に代替的に晴らしてもらおうという、無責任かつ最悪のプランによって、逆効果的に、ローズのささやかな自信を打ち砕き、彼女に内在していた強い劣等感を引き出す。

 ピアノに座らされ、鍵盤に震える指を乗せながらも、「すみません、弾けません」と言って、知事夫婦にユーモラスなフォローを受けてしまうキルスティン・ダンストの「惨めさ」の演技は素晴らしい。

 『ピアノ・レッスン』では、男女の性愛を繋ぐ象徴であったピアノ(それは、運搬困難によって、海岸沿いに放置される)が、ここでは、大勢のカウボーイたちに担がれて部屋の壁際に置かれ、若夫婦の自滅的屈辱感を引き出す悪魔の器具となる(劇中、この伏線が引かれている。開始早々、フィルがピーターを寵辱した後、ローズは「ピアノなんか、置くんじゃなかった」とつぶやいている)。

 劣等感の責任転嫁が劣等感を引き出す、という劣等感の感染は、ごくごく普通のことだ。ジョージは「優しいが故に、不器用だった」のではない。愛する女性を神格化し、盲目的に自分の願望を仮託するのは単純にミソジニーの裏返しであり、ポテンツの陰画だ。

 「優しいが故に不器用」なのはむしろフィルの方である。結局パーティーに出席するフィルのセリフは口汚いが、フォローしようとしてることがわかる。それは劇中、一貫している。

 ローズはこの日まで、ベートベンの「ラデツキー行進曲」を練習している。この徹底的な「才能ない感」「音痴感」は、音楽家である筆者ならずとも、気の毒なほどだ。そして、バンジョーの名手であるフィルは、その曲を即興的にカントリー風にアレンジし、上階から弾き倒す。

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