有村架純、林遣都ら“家族”が鈴木浩介を翻弄する 現代社会を反映した舞台『友達』

 東京・新国立劇場にて幕を開けた舞台『友達』。本作は、1967年に初演された安部公房による不条理劇を、現代に響くようアレンジした逸品だ。上演台本と演出を手がける若き才能・加藤拓也のもとに、浅野和之、山崎一、キムラ緑子、林遣都、有村架純、鈴木浩介などといった手練れのプレイヤーたちが集っている。彼らが体現しているのは、とある「家族」である。

 簡単にあらすじを記そう。アパートで暮らす1人の「男(鈴木浩介)」のもとに、とつぜん9人の「家族(浅野和之、山崎一、有村架純ら)」が押しかけてくる。彼らにとってこの男は、「友達」であるらしい。しかし男は彼らとの関係性について身に覚えがない。男は婚約者(西尾まり)やアパートの管理人(鷲尾真知子)、警察官(長友郁真、手塚祐介)にもこの異常事態を訴えるが、取り合ってもらえない。そうしてやがて、いつしかこの男は「家族」の一員となり、奇妙な“家族像”をつくり上げていくことになる……。

 物語は、家族の訪問を告げる次女(有村架純)の第一声からはじまる。舞台中央の床には大きな扉が設置されており、これが男の部屋と外の世界との境界線になっている。つまり俳優たちが舞台上に出入りするのも、この一点のみだ。男が扉を開けたとたん、9人の男女が、まるで長旅を経て旧友宅を訪れた者たちのように、ぞろぞろと、そして図々しく上がり込んでくる。劇場内に響く有村の涼やかな声からは、これがこの後に起こる悲劇とも喜劇ともつかない奇妙な不条理劇のはじまりの合図だとは想像もつかない。いくら物語の結末を知っていたとしても、「何か違うことが起こるんじゃないか?」と思わせる力が彼女の声にはあるし、後の展開にも効いてくる。第一声というのは演劇において、観客を劇世界に誘うのにも非常に重要なもの。これに続くかたちで、9人の者たちによる声のアンサンブルが繰り広げられるのだ。

 何が正しくて、何が間違っているのか、その境界線があやふやになる劇空間では、父役の山崎一の安定した声が、口にする言葉のすべてを正論であるかのように錯覚させ、シリアスとはほど遠い人を食ったような話し方をする長男役の林遣都の声や、三男役の大窪人衛、三女役の伊原六花の声の持つピュアネスが、この「家族」という一団に色彩の豊かさを与えていると思う。部屋に1人でいた男にとって、彼らはさながら“社会(=世間)”なのである。

 この不条理劇において要となるのは、9人家族という「集団」と、1人の男という「個」の構図。9人の俳優は個々のキャラクターの性質の主張よりも、家族像を体現すべく9人みんなで“一体感”を生み出さなければならない。これぞ演技の“重奏”。さすがは演技巧者の集まりである。舞台上に見事なアンサンブルが展開していると感じられたのは、集団の一体感を実現させている証なのだと思う。集団に男が飲み込まれていくさまは気の毒ではあるが、なんとも美しい音色を奏でているのである。

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