『竜とそばかすの姫』に刻まれる佐々木昭一郎の影響 映画史的記憶を引き継ぐ俳優の起用も
目の前を男が落ちてきた。『竜とそばかすの姫』の試写を観た帰り道の出来事である。すぐに近くの交番から警官が駆けつけ、一部始終の目撃者が大きな身振りで何事かを警官に話している。やがて救急車の音が聞こえてきたので筆者はその場を離れたが、つい気になってSNSで検索してみると、当事者のツイートが直ぐに見つかった。落ちてきた男は、その直前まで動画配信を行っていたのだ。その動画には、何人かが思いとどまるようにリプライを送っていた。
道に横たわる彼を目にした直後に、数分前の彼の映像をかんたんに見ることができてしまうのが現代である。ネット社会の発達は、匿名の仮面など突発的な事態が起きれば直ぐに剥がし、通りすがりにすぎない筆者に、なぜ彼がそのような行動を取り、どんな原因があったのかまで瞬時に分からせてしまう。『竜とそばかすの姫』で描かれていたのも、こうした現代のインターネットと現実の関係である。
毀誉褒貶の激しい細田守監督作品
心に傷を抱えて生きるヒロインの鈴は、インターネットの仮想空間〈U〉でベルという他者になることで、幼い日の母の死をきっかけに歌うことができないでいた自身を開放し、歌姫として世界中から称賛されるようになる。本作は音楽映画として構想されただけあって、数々のミュージシャンが参加して質の高い曲を提供している。音楽監督・岩崎太整のもと、それらの楽曲が連なりを持ち、音楽によって世界観を広げることに成功している。中村佳穂の歌声も素晴らしく、〈歌える俳優か? 芝居のできる歌手か?〉という悩ましい選択を、細田守監督は見誤らなかった。エリック・ウォン(建築家)による〈U〉の空間造形も際立ち、シネマスコープに相応しい充実した画面は一度ならず、もう一度観たいと思わせる。公開初日にTOHO シネマズ日比谷で再見したのも、いい音響と、大きなスクリーンでなければ、本作を観たことにはならないと思ったからだ(試写室のスクリーンは小さい)。
終映後、場内が明るくなると、近くに座っていた観客が、「『美女と野獣』+『サマーウォーズ』だね」と連れ合いに語っていた。おそらく多くの観客も同様の感想を持ったのではないだろうか。そのことは監督自身もインタビューで明かしているので、ここで屋上屋を架す必要はあるまい。それを後退と見る向きもあるようだが、宮崎駿がアイデア構成、原画で参加した『どうぶつ宝島』(1971年)から、監督作『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)を経て、自身のオリジナル企画を監督した『天空の城ラピュタ』(1986年)へと同工異曲の物語を繰り返し作ってきたように、時間を経て同じテーマに挑むことは悪いことではない。もっとも、そこに前作を上回る手立てがなければ、自己模倣に陥るだけだが。本作では、前述した歌と空間造形、そして今日的なインターネットへの視点をコーティングすることで、『サマーウォーズ』(2009年)と似て非なるものを作り出そうとしたようだ。
とはいえ、近年の細田作品――『サマーウォーズ』以降と言っていいが、公開されるたびに毀誉褒貶が激しい。実際、前々作『バケモノの子』(2015年)を映画雑誌で好意的な短評を書いたところ、意外に反論が寄せられ、前作の『未来のミライ』(2018年)は一転して不出来と感じたので、同じく短評でその通り書いたら、今度は擁護派から反論が来るという具合で、賛否が別れているのを実感させた。しかし、流石に『未来のミライ』には、オリジナル企画で監督自身が脚本を書くことの限界も見たので、脚本家を入れるなり、原作ものをやるべきだと思っていただけに、本作が『美女と野獣』をベースに、『サマーウォーズ』と『時をかける少女』(2006年)を加えたような――言わば得意技を駆使した作りになっていることには安心した面もある。
川と歌が結ぶ佐々木昭一郎作品との共通点とは?
『竜とそばかすの姫』の現実部分は、常に〈川〉を介して描かれている。緑豊かな高知の田舎町に暮らす鈴は、自宅を出て川の上に架かったコンクリートの橋を渡って通学する。この川の上で彼女は友人から〈U〉への招待を受け、また人前で歌うことができなかった彼女が、あるとき意を決して歌おうとしたのも川の上だった。高知の市街地を流れる鏡川も、鈴がトラブルに巻き込まれた報せを受ける場面、幼なじみで今はすっかり女子に人気のしのぶくんと話す場面、さらにラストカットに至るまで、重要な場面ではいつも背景として映り続ける。
鈴にとって川は最も身近な存在であり、憎悪の対象でもある。彼女が幼い頃、母は中洲に取り残された少女を助けるために川へ入り、少女の命と引きかえに帰らぬ人となった。なぜ見知らぬ少女のために母は死なねばならなかったのか? その疑問は高校生になった今も鈴から消えることはない。
母が増水した川に入ろうとしたとき、幼い鈴は身を挺して止めようとする。しかし、母は必ず戻ってくることを約束し、助けに行く。周りに男たちもいるというのに、ただ手をこまねくだけで鈴の母だけが動くというのは不自然になりかねないはずだが、この場面を成立させているのは、母の声を島本須美が演じているからだと断言しても、観た方ならわかってもらえるのではないだろうか。『風の谷のナウシカ』(1984年)で、旅立とうとするナウシカ(島本)を、風の谷の幼女たちが泣いて引き止める場面を思い出せばよい。島本ならば中洲の少女を放っておくことなどできないだろうと思わせてしまう。
こうした映画・映像史的な記憶は、鈴も参加する合唱グループの女性たちの1人に、中尾幸世をキャスティングするところでも発揮される。NHKのディレクター佐々木昭一郎によって見出された中尾は、テレビドラマ『夢の島少女』(1974年)、『四季・ユートピアノ』(1980年)などに主演した伝説的なミューズである。佐々木作品は、是枝裕和、河瀬直美、庵野秀明、岩井俊二ら、1960年代生まれの多くの映画作家たちに影響を与えたが、細田守もそうした1人だったようだ。
佐々木作品に通底するのが、歌であり、川である。「私、この歌、唄いたい」と中尾がつぶやく『四季・ユートピアノ』は、家族を失って孤独な身となった田舎に暮らす16歳の少女が上京し、ピアノ調律師となって各地の人々と交流する。そのなかで彼女の心にはいつも音が響いている。彼女の母が川へ落ちて落命した設定といい、『竜とそばかすの姫』を観始めて、直ぐに想起したのが本作だった。
佐々木はその後、「川シリーズ」と呼ばれる世界の川のほとりを舞台にした連作を、中尾主演で撮り始める。その第1作となる『川の流れはバイオリンの音』(1981年)の企画ノート冒頭に、次のように記している。
「川は、永遠に流れる。
音楽は、うたいつがれる。
人は生き、死に、絶えることはない」
(『月刊ドラマ 1984年12月号』より)
まるで『竜とそばかすの姫』のテーマを語っているかのようだが、佐々木作品のヒロインは田舎から外の世界へと飛び出し、川と音を介して人々と交流していく。細田作品では、田舎からインターネットを介して世界とつながり、川と歌によって交流していくことになる(終盤でもある川が登場するが、四国とはかけ離れた場所が、川によってつながる)。
細田のたっての希望で出演が実現したという中尾は、コーラスグループの畑中さんという役を演じており、パンフレットの解説によると大学講師という設定のようだ。彼女は高校生のときに海外留学し、現地で知り合った少年の誕生日に歌を唄ってあげたことを劇中で語る。この設定自体が、島本須美のイメージの流用と同じく、明らかに佐々木作品を踏まえたものだが、中尾は鈴にラブソングを作るように示唆を与える特権的な役割りを担っている。そして、鈴が作るその歌もまた川べりで生まれるのである。