演劇・映画界が舞台の『おちょやん』だからこそ描けるもの 喜劇の奥にある幾重もの切なさ

 NHK連続テレビ小説『おちょやん』が大きな転換期を迎えた。道頓堀編から京都編を経て、再び道頓堀編へ。杉咲花演じるヒロイン・千代が、ようやく自分の居場所を築いたと思ったら、トータス松本演じる父・テルヲがどこからともなく現れ、またも全てを奪って去っていった。何度裏切られても、「お父ちゃんの背中」を郷愁と共に思い出してしまう彼女の目の奥は、どんなに明るく朗らかに振舞っていてもいつもどこか寂しそうに揺れて煌めいていて、どうにも目が離せない。

 千代自身もそうだが、万太郎(板尾創路)の台詞「人の世は笑えん喜劇と笑える悲劇のよじれあい」とはよく言ったもので、この『おちょやん』の物語自体が、喜劇の奥に幾重もの切なさを織り交ぜた作品なのである。

 『半沢直樹』『陸王』(TBS系)の八津弘幸が脚本を手掛ける朝ドラ『おちょやん』の斬新さは、出演者による口上から幕を開けたこと、そして「黒衣」である語り手、桂吉弥の存在にある。前作『エール』のプレ最終回において主演2人が役柄を離れ視聴者に向かって挨拶をしたことも珍しかったが、『おちょやん』の初回冒頭は、ヒロインと主な登場人物が一列に並び、それぞれの「役どころ」を自己紹介していくという、さらに上を行くスタイルだった。

 黒衣によるナレーションも、「朝ドラあるある」としてヒロイン登場シーンを予想したり、ヒロインとの軽妙なやりとりがあったりと、非常にアクティブな働きぶりである。これは、前作から本編が週5話構成に変わったこともあり、よりわかりやすさを重視した視聴者目線の手法でもあるが、なにより、演劇界・映画界が舞台の『おちょやん』だからこその演出だと言える。

 演劇界が舞台ならではの演出と言えば、他にもある。ここぞという時に舞う花吹雪である。シズ(篠原涼子)と延四郎(片岡松十郎)の最後の逢瀬を彩ったのは、幻想的に舞い散る枯れ葉だった。一平(中須翔真/成田凌)の父、初代天海天海(茂山宗彦)の劇場葬と、喜劇王・万太郎がまき散らす花吹雪は、その後の天海一座の斜陽と万太郎一座の栄光を示した。カフェー「キネマ」で働く女給と客たちが、今月の売り上げトップである洋子(阿部純子)を花吹雪で祝う華やかな光景に、山村千鳥(若村麻由美)の苦労話を千代に語って聞かせていた清子(映美くらら)の「きっとあんたらも似たようなもんやろ」という台詞が重ねられることで、そこではしゃぐ彼女たちの「楽しい」だけではない、これまでの苦労や、なかなか叶わない夢といった彼女たちの様々な物語が幾重にも重なって見えてくる。

 『おちょやん』は、人の出会いと別れの「別れ」を通して人と人の心の濃厚な交わりを描く。大正から昭和にかけての大阪の芸能史。人生を演劇や映画に懸けた人々の悲喜こもごも。そこに宝塚歌劇団出身者や大衆演劇出身者、歌舞伎役者に狂言師と、実際に舞台で活躍してきた様々な個性と実力ある俳優たちが入り乱れるのも、実に華やかで味わい深い。

 「わしはただ見てるだけや。新しい女優さんが入ってきて、ほんでまた出ていく」という守衛のおっちゃん(渋谷天外)の台詞があったように、作り手を志し、以前の千代のように撮影所の門を喜び勇んでくぐる人もいれば、小暮(若葉竜也)や弥生(木月あかり)のように、夢破れ、去っていく人もいる。頻繁に、来る者去る者が入り乱れる世界において、彼らはその一期一会の繋がりを、何より愛しんで生きている。

 千代はいつも、一人で悲しむ。どんなに辛いことがあってもその場では笑っていて、一人になった後にそっと泣く。一平は、「お前の苦しみはお前にしかわからん。俺の苦しみはお前なんかには絶対にわからへん。そやから俺は芝居する」と言った。その言葉通り、千代や一平が言葉にならない自分の感情を表に出すことができるのは、芝居を通してのみである。

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