黒沢清監督が『スパイの妻』で達した新境地 “とてつもなさ”を秘めた、新しいメロドラマの完成形

 本作の脚本は、黒沢監督が教えていた東京藝術大学の生徒たちである、野原位と濱口竜介との共同で書かれている。本作のような規模の作品を、オリジナル脚本で撮ることができたのは、様々な尽力があってのことだろうが、それだけに黒沢監督の持ち味が十分に活きるものとなっていた。

 最も分かりやすいのは、「映画」が重要な意味を持つ部分であろう。優作は、溝口健二監督への憧れがあり、自分でも聡子を主演に劇映画を撮ってしまうほどの映画マニアである。そして、その趣味こそが重大な証拠を握ることへとつながるのだ。そう、ここでは「映画」が世界を動かし、一国の運命を決するのである。ここまで“映画本位”な物語も珍しいだろう。

 そして見逃せないのは、山中貞雄監督の映画作品が上映されるシーンである。山中監督といえば、満州に出征して、帰らぬ人となってしまった映画監督だ。まだ若くして世を去ったため、彼が監督した作品は比較的少なく、フィルムが現存し鑑賞できる作品はわずかしかない。だが、日本を代表する世界的な監督である、小津安二郎や黒澤明をも凌駕するセンスがあり、生きて映画を撮り続けていれば、世界で知らぬ者はいないほどの存在になっていたはずである。

 『スパイの妻』が、山中監督の作品を登場させたメッセージは、明らかである。映画が至上のものである黒沢監督らにとって、才能ある映画監督を死なせるということは悪に他ならない。つまり、ここで描かれる戦争に正義などないことを、怒りをこめてスクリーンに映し出しているのである。

 そして『カサブランカ』や、ヒッチコックやハワード・ホークス監督のサスペンス作品がそうであるように、本格の映画とは、スターが存在してこそである。蒼井優と高橋一生は、幾度となくバストアップのツーショットで撮られ、ときにわざとらしいまでに、ハリウッドスターのような美しさを湛えている。さらに、蒼井の時代がかった喋り方や、いまは全く見られなくなった、正義に燃える熱血漢としての演技を披露する高橋。この二人の演技に、演出も照れを捨ててしっかりと応えている。

 『スパイの妻』は、このように表面的なオマージュやパロディを超え、普遍的な感覚のなかで、それでも黒沢監督の持ち味を効果的に活かした、新しい本格サスペンスであり、新しいメロドラマの完成形となっている。黒沢清監督が、この境地へと達したこと、そして日本映画がこの作品を生み出したという事実、そして世界で評価されたことに、あらためて賛辞を贈りたい。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『スパイの妻<劇場版>』
新宿ピカデリーほかにて公開中
出演:蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、東出昌大、笹野高史ほか
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
制作著作:NHK、NHK エンタープライズ、Incline,、C&I エンタテインメント
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
2020/日本/115分/1:1.85
公式サイト:wos.bitters.co.jp

関連記事