黒沢清監督が『スパイの妻』で達した新境地 “とてつもなさ”を秘めた、新しいメロドラマの完成形

 黒沢監督の分かりやすい変化は、やはり俳優の扱いについてであろう。例えば『カリスマ』(1999年)や『回路』(2000年)のような鋭さが前面に出ていた時期の作品では、俳優を俳優として撮る、風景を風景として撮るというよりは、極端な言い方をすると、“空間の中で肉塊が動いている”ような、おそろしく客観的な冷たさがあった。そして、そこに作品としてのコンテンポラリーな面白さがあった。

 本作では、そのような描写が多用されてはいないが、例えば冒頭で貿易商が逮捕される場面や、憲兵による拷問の残酷な描写をそのまま見せずに、後ろ姿と音で表現するという不気味な演出、または空襲の轟音と炎の光が外に見える室内を聡子がゆっくりと歩き出す描写など、要所において黒沢監督の個性際立つ作風が見られるのである。そして、それが本格的なサスペンス演出の文脈としても十分に機能している。その意味で、シーンには二重の価値が付与されているといえるのである。

 さて、本作は前述した『旅のおわり世界のはじまり』同様に、メッセージ性が強い作品である。その試みの一つは、日本の戦争犯罪を見つめるという行為である。日本軍が満州において、捕虜に対して国際法上違法な人体実験を行っていたという話は、様々な証言によって裏付けられてきた。日本では一部でこれを否定するような声もあったが、近年ロシアでも新しい物証が見つかり、NHKの番組で、その事実が特集されている。

 劇中で優作が「コスモポリタン(世界主義)」と表現するように、彼は人類全体の正義を考えて、そんな日本軍の行為を告発するべきだと考える。それは、戦争へ向かい多様な考え方が許されない時代の日本国内においては犯罪行為である。そして、優作はもちろん、それに賛同し告発に協力していることを知られてしまえば、聡子もまた大罪人だとみなされることになる。捕まれば確実に死刑に処されるだろうし、運が良くても牢獄か精神科病院に入れられることは免れないだろう。日本の罪を暴こうとする優作や聡子のような人物は、大逆人であり異常者だとされるのである。

 しかし、実際にはどちらが異常なのか。劇中で聡子によって語られるように、事実を知ったとき、人道に反する行為を見過ごし加担することこそが異常なのではないのか。牢獄や精神科病院の外と内が逆転しているのではないか。これは、中井英夫の推理小説『虚無への供物』(1964年)でも、印象的な言葉として語られていた言葉だ。正常が異常に、異常が正常となってしまう。まさに、真におそろしいホラーとは、このことではないだろうか。そして、現在の日本もまた、次第にそのような様相を呈し始めているとしたら……。

 同時に本作の物語は、もう一つのサスペンスとしても捉えることができる。まず、聡子の優作に対する疑心。彼女は、愛する夫が自分のことを本当に愛しているのか、他の女性のことが好きなのではないかと考える。その結果によっては、聡子にとって天地がひっくり返るかもしれない一大事である。サスペンスの帝王といわれる、アルフレッド・ヒッチコックも、『レベッカ』(1940年)や『断崖』(1941年)で、夫への疑念や愛情の有無がサスペンスとして表現されていた。

 聡子がその疑念を乗り越えると、物語は壮大なメロドラマの様相を呈し始める。夫が日本政府を裏切ろうとすることを知ることで、自らも「売国奴」「非国民」としての汚名を着て、他の全てを捨てて優作の計画に加担しようとする。しかし、その表情はむしろ以前よりも明るく輝くように見える。聡子は優作と同じ目的を持ち、多大な犠牲を払って共同で作戦を遂行することで、彼に対して真の意味で寄り添う存在となれる……そのように考えるのである。一人の人物を極限まで愛することとは、確かにこのようなものかもしれない。

 そして、ついに神戸が爆撃される瞬間、聡子はその想いを一部遂げることとなる。優作の最終的なねらいは、日本がアメリカと戦争し、敗れることであった。それはまた、日本人という共通項でくくられた「同胞」の命を犠牲にすることである。愛する人物の目的の達成が、日本人の大量死へとつながる。それは、当事者にとっておそろしいほどの罪悪感に身を浸すことだろう。しかし、その罪悪感が重ければ重いほど、被害が大きければ大きいほど、彼女の愛は深まっていくのである。この愛の物語が生んだ凄まじいほどの地獄の情景が、蒼井優の見事な慟哭によって両義性を持って表現されることになる。

 それは、“世界の終わりの風景”にフェティッシュを持つ黒沢作品らしい場面といえるが、同時に蒼井優の演技力に頼る、過剰にウェットにも感じられる演出だともいえる。それは、前田敦子をわざとらしくオーバーアクトさせた演出によく似ていて、黒沢監督本来の作風とは異なるかもしれない。しかし、これこそ俳優を俳優として撮る、照れや表面的なかっこよさを捨てた、ある意味で本格の映画であるともいえよう。

 太平洋戦争開戦後に公開された映画『カサブランカ』(1942年)は、アメリカ映画の重要作として知られている。それは、近年でも多くの映画作品に引用されたり、ワーナー・ブラザース作品のイントロ・ロゴ映像で『カサブランカ』の挿入曲「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」が流れることからも実感できる。だが、この作品がとくに重要視されるのは、作品そのものの出来以上に、それが大衆の喜ぶハリウッド映画の一つの完成形といわれるものになっているからである。

 第二次大戦のさなかに戦争を題材にしながら、直球のロマンスを前面に押し出して、ユーモアのあるセリフを散りばめながら、センチメンタルかつ軽快にドラマを描いているのである。同時期の日本やドイツの軍部がこの映画を観たら、「なんと惰弱な」と笑ったことだろう。しかし、こんな時勢に、軽薄さを感じるまでに恋愛や娯楽をてらいなく描いたアメリカ映画の強さに、現在の目から見ると、むしろ畏敬の念すら感じるところがある。『スパイの妻』もまた、何よりもメロドラマであろうとするということが、戦争や、価値観を強制しようとする社会や時代の動きに対して、自由を掲げる一種の反撃になっているのではないだろうか。

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