細く長く引き伸ばされるヒコウキ雲のように 人々を魅了し続けるイザベル・ユペールの輝き

 フェルメールの絵筆がひとりの女性を、薄暗い室内から静かに浮き上がらせる。彼女は窓外にまなざしを送る。誰かのことを思いつめて夜を明かしたのか、その瞳は寝不足の物憂げさを漂わせる。あるいは、空。頭上を見上げた人々が不安に駆られるほど、どこまでも細く長く引き伸ばされていく一条のヒコウキ雲。そんな、薄暗がりから見え隠れする人影や、執拗に伸びていく灰色のヒコウキ雲にまで変容して見せて、人を魅了し続けてきた女優が、現代フランス映画界に存在する。

 顔面から全身にかけて広範囲にソバカスの広がる印象的な肌と、幻想的な赤毛をもって、ヌーヴェルヴァーグの終息した1970年代映画界に現れた女優、イザベル・ユペール。わたし/わたしたち/あなた/あなたたち/彼女/彼女たち。つまり一人称、二人称、三人称も、単数も複数もすべて演じることができる女優。唯一無二の存在感をかもし出すと同時に、どこにでも偏在する匿名性も併せ持つ女優。

 ある著名な映像編集者が、自分の作業哲学について次のように述べたことがあった。

「極端な例を観察した方が、その事物の本質をよりよく理解できる。たとえば水について知ろうとするなら、水そのものよりも、氷や水蒸気からの方が、より水の本質を見極めることができたりするだろう」(ウォルター・マーチ著『映画の瞬き 映像編集という仕事』
(フィルムアート社)p.14)

『エル ELLE』(c)2015 SBS PRODUCTIONS - SBS FILMS- TWENTY TWENTY VISION FILMPRODUKTION - FRANCE 2 CINEMA - ENTRE CHIEN ET LOUP

 イザベル・ユペールは人称性からも単数/複数からも自由な女優で、水の本質を表現するために、氷にも水蒸気にもなる。彼女は最初、行きずりのセックスに興じる奔放な少女として、私たち日本観客の前に現れた(ベルトラン・ブリエ監督『バルスーズ』/1973年)。続いて、米ワイオミング州の開拓移民の姿で(マイケル・チミノ監督『天国の門』/1981年)。部品工場を解雇され、けたたましく騒ぎ立てる労働者として(ジャン=リュック・ゴダール監督『パッション』/1982年)。販路拡大のため日本にやってくる鱒(ます)の養殖業者として(ジョゼフ・ロージー監督『鱒』/1982年)。性的嗜好をコントロールできないピアノ教授として(ミヒャエル・ハネケ監督『ピアニスト』/2001年)。自分をレイプした犯人を独自捜査するゲーム会社敏腕社長として(ポール・ヴァーホーヴェン監督『エル ELLE』/2016年)。

 挙げだしたらキリがないほど、あらゆるバリエーション豊かな役柄を演じ続けてきた。彼女は作家とのコラボレーションをみずから仕掛ける。1990年代、筆者が編集委員をつとめた映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』誌上には、彼女がゴーモン社の社主を通じて黒沢清にコンタクトを取り、面会したことがレポートされた。現在までのところユペール主演の黒沢映画は実現を見ていないが、その代わり東アジアでは、韓国のホン・サンスが彼女と共に2本の作品を作った(『3人のアンヌ』/2012年、『クレアのカメラ』/2017年)。最新主演作『ポルトガル、夏の終わり』(アイラ・サックス監督/2019年)にしても、『人生は小説よりも奇なり』(2014年)に感銘を受けたユペールみずからアイラ・サックス監督にコンタクトを取り、一緒に仕事がしたいと要請したとのこと。

 しかしここでは、豊かなバリエーションと溢れるモチベーションの高さをもって、彼女が氷にも水蒸気にもなると言い立てたいのではない。常識に囚われない役柄を演じつつも、役柄以上の存在へといつの間にか変容し、役柄以外の存在へと偏在的、漸進的に横すべりしていく。役作りに入念に励みつつも、役柄から巧みに遊離もする、いわば「役柄の零度」とも言うべき地点にさっと手を触れて、触れたかと思うとあっという間に現世に帰ってくる。大西洋を望む山の頂上に一族郎党を呼び寄せておいて、山頂に集ったと思ったそばから、何やら巡らしていたはずの計略をあっさりと廃棄して下山し始める、『ポルトガル、夏の終わり』の主人公フランキーのように。

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