『銃2020』が撃ち抜く現代社会の歪み アフターコロナ時代の日本を反映した作品に

 「ドアがあるなら、開けてもいい。でもどこまで開けるかは、少し考えた方がいい」――そんな警句めいたエピグラフと共に幕を開ける映画『銃2020』。企画・製作を奥山和由が、監督を武正晴が務める本作は、同タッグによる2018年の映画『銃』の“双子”のような作品と言っていいだろう。作家・中村文則のデビュー作『銃』を、村上虹郎主演で映画化した『銃』。それは、ある雨の夜、思いがけず拳銃を拾った青年が、「自分は銃を持っている」という事実によって、自らの味気ない日常に得も言われぬ充実を感じてゆく――そんな実に“文学的な”映画だった。

 一方、本作『銃2020』の主人公である東子(トオコ/日南響子)は、見ての通り20代の若い女性だ(そう、“双子”ではあるけれど、その性別が違うのだ)。ある夜、不穏なストーカーから逃れるため、怪しげな飲食店が軒を連ねる雑居ビルに足を踏み入れた彼女は、ビルのトイレの洗面台で一丁の拳銃を発見する。いつの間にか降り出した激しい雨の中、ようやく自宅に戻った彼女は、持ち帰った銃をまじまじと見つめたあと、日記にこう書き記すのだった。

「土曜、雨。拳銃を拾う。何で拾ったのかは、これが不機嫌そうだったから」

 そして翌日、彼女は前日のメモを横線で消し、改めて次のように書き記すのだった。「日曜、晴れ。昨日、私は拳銃を拾った。もしかしたら拾ってあげたのかもしれないけど、私にはよくわからない。こんなに奇麗で、不機嫌そうなものを、私は他に知らない」。ある雨の夜、思いがけず拳銃を拾った女は、「自分は銃を持っている」という事実によって、一体どんな変化をきたしていくのだろうか。それが、この物語の焦点である。

銃を“男性”として提示

 『銃』の主人公だった青年同様、彼女もまた内なる孤独を胸に抱えている。けれども、電気の止められた安アパートにひとり暮らす彼女を取り巻く環境は、『銃』の青年よりも遥かに深刻であるようだ。定職にも就かず、街娼まがいの手口で男から金を巻き上げ、無計画に暮らしている東子。彼女の唯一の肉親である母親(友近)は、精神に異常をきたして入院中。どうやら、その治療費も彼女が負担しているようだ。夢も希望も未来もない。そんな彼女の前に現れるのは、よりにもよってろくでもない男たちばかりである。

 彼女をつけ狙う不審な中年ストーカー(加藤雅也)をはじめ、銃を拾った雑居ビルで遭遇した怪しげな男(佐藤浩市)。そして、とある殺人事件の捜査のため彼女のアパートを訪れる、やさぐれた刑事(吹越満)。誰もがみな、普通ではない“狂気”を、その内側から打ち放っているのだった。

 「今回は、銃を“男”として捉えました」。監督・武正晴は言う。「前作で銃は、人間の内面にある象徴でした。それを堂々と“男性”として提示したのが『銃2020』です」と。なるほど、今回の主人公である女性・東子は、“銃”を手にしたことによって、かつての青年のような“全能感”を得るわけでもなく、まずはその“声”に耳を傾ける。

 「ねえ、誰を撃ったの?」「早く撃ちたいでしょ?」。そんなふうに、“銃”を手にしながらも、どこか“受け身”であり続ける彼女の内面を見透かしたように、男たちは彼女を挑発する。銃を構えた彼女に向かって、ある男は言う。「お前に、撃てるのか?」。まるで、「弾を発射できるのは男だけだ」と言わんばかりに。そして、こともあろうか鏡越しに、観客たちをも挑発するのだった。「お前ら、何もできねえよ!」と。また、ある男は猫なで声で彼女にそっと語り掛ける。「俺がお前を守るから、お前は何もしなくていい」と。

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