社会派サスペンスの秀作『ルース・エドガー』 その「社会派」と「サスペンス」の意味を深掘りする

 これを、日本社会に、そして自分自身に置き換えてみればよりわかりやすくなる。自分は日本においては社会的にも人口比的にも「マジョリティ」に属する、中年の、男性の、シスジェンダーだ。これからの日本社会がどうなるかはわからないが、少なくとも自分はこれまで生きてきた中で「完璧でなければならない」というプレッシャーを感じることはなかった。つまり、実際に社会的に成功しているかどうかは別として、これまで「失敗する自由がある」中で生きてきて、実際に何度も失敗をしてきた。しかし、マイノリティにとっては(劇中のデショーンのように)一回の失敗が命取りになることもある。きっとマジョリティの側は日常的にそのことへの想像力をもっと持つ必要があるのだろう。もちろん、自分だって日本の外に出れば途端に何の仕事にも就くこともできない、そもそもその能力さえないマイノリティになるわけだし、アメリカの黒人もアトランタのラッパー2 Chainzの作品にもあるように「ラッパーとして成功するかプロのスポーツ選手になるか」(Rap Or Go To The League) すれば、「完璧でなければならない」ゲームから抜け出すこともできる。しかし、言うまでもなく、それらはいずれも「例外的な出来事」にすぎない。

 「社会派サスペンス」作品『ルース・エドガー』の「サスペンス」に最後に立ち返ると、本作の最大のサスペンスは、主人公ルース・エドガーとオクタヴィア・スペンサー演じる高校の歴史教師との間で交わされる精神的な駆け引きにある。オクタヴィア・スペンサーといえば、これまで『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』(2011年)や『ドリーム』(2016年)といった作品で、それぞれの時代の白人社会で虐げられてきた黒人女性を印象的に演じてきた名女優だ。本作でオクタヴィア・スペンサーは、そんな過去に演じてきた女性たちが行き着いた一つの達成とも言える、「完璧でなければならない」人生を送った末に社会的な地位を得た黒人女性を演じている。しかし、そんないわば「マーティン・ルーサー・キング・Jr.的」とも言える人生を送ってきた彼女が、ルース・エドガーにとっては抑圧的な存在となっていくのだ。そのアイロニックな構図、同人種間の(多分に世代的なものでもある)分断と対立こそが、本作の最大の肝と言えるだろう。

 ブラック・ライブス・マター運動(本作はそれ以前の戯曲をもとにしていて、映画化のデベロップもブラック・ライブス・マター運動が盛り上がる前から始まっていたという)や#MeToo運動を経て、最近のアメリカ映画は「ポリコレにがんじがらめになっている」とする向きが、日本の一部にあるようだ。しかし、そんな寝言は、『ルース・エドガー』のような作品の前では、一瞬で吹き飛ばされてしまう。現在、アメリカ映画だけでなく各国の最先端の映画が取り組んでいるのは、ポリコレの矛盾や盲点、そしてポリコレ的な基準が一度社会に浸透した上で生まれた、より複雑な新しい課題だ。世界の映画は、どんどん先に進んでいる。

■宇野維正
映画・音楽ジャーナリスト。「装苑」「GLOW」「キネマ旬報」「メルカリマガジン」などで批評やコラムを連載中。著書『1998年の宇多田ヒカル』(新潮社)、『くるりのこと』(新潮社)、『小沢健二の帰還』(岩波書店)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア)。最新刊『2010s』(新潮社)発売中。Twitter

■公開情報
『ルース・エドガー』
6月5日(金)、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国公開
監督・製作・共同脚本:ジュリアス・オナー
出演:ナオミ・ワッツ、オクタヴィア・スペンサー、ケルヴィン・ハリソン・Jr.、ティム・ロス
提供:キノフィルムズ
配給:キノフィルムズ/東京テアトル
2019年/アメリカ/英語/カラー/SCOPE/5.1ch/110分/原題:Luce/字幕翻訳:チオキ真理/PG-12
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