岩井俊二を追いかけ続けずにはいられない理由 『ラストレター』に込められた人生の重み
葬式という儀式で始まり卒業式という儀式で終わる。主に化け物などを得意分野とする漫画を書いているという庵野秀明演じる宗二郎を大黒柱とする遠野家の「遠野」は『遠野物語』を彷彿とさせ、未咲(広瀬すず)という女性の死の気配が家中に漂う岸辺野家はその名の通り、岸辺で死者と共にいる。思い出の仲多賀井(ナカタガイ)高校、そして2つの場所を繋ぐ「上神峯神社」(原作より)。『ラストレター』というタイトルがクレジットされると同時に、映画は、神話めいた言葉で彩られたそれらの場所、他ならぬ岩井俊ニの故郷・仙台の町並みを鳥瞰していく。
絶賛上映中の映画『ラストレター』である。『四月物語』の松たか子、『Love Letter』の中山美穂と豊川悦司、そして岩井自身が主人公“カントク”を演じた映画『式日』を監督した庵野秀明と、岩井映画ゆかりの人々が集い、広瀬すず、森七菜、神木隆之介という新たな才能たちも加わり、川村元気プロデューサーが言うところの「岩井作品のベスト盤」が出来上がった。特に、まだ言葉の端々にあどけない少女性が残る、森七菜という女優の発見ほど(もちろん『天気の子』でその瑞々しい声とは先に出会っていたのだが)映画にとっての幸福な出会いはないだろう。
映画の公開よりも1年以上前に発売された小説『ラストレター』(文藝春秋)を読んだ時、これは、メッセンジャー、つまりツバメである鏡史郎(福山雅治)が、手紙という形で、人間に痛めつけられ傷ついて、もう世界を見ることができなくなってしまった王子こと、今は亡き女性に、彼女のことを愛していた人々のその後の世界を見せ続ける、『Love Letter』に続く岩井版「幸福の王子」なのだと感じた。
小説版は鏡史郎の一人称によって、複数の手紙の主たちの物語が描かれていたために、女性たちの人生とは関係のない、彼個人の人生を描くエピソードも複数描かれていたが、映画版の鏡史郎は、「今度はてめえの一人称なんかで書くんじゃねえぞ」(『ラストレター』,文藝春秋,p.174)と言う阿藤(豊川悦司)の言葉そのままに、傍観者としてしか存在することを許されず、遠野家、岸辺野家の物語を追いかけているに過ぎない。
映画の中心には、鏡史郎ではなく、「未咲」という死者がいる。未咲は、高校のマドンナ的存在だったが、豊川悦司演じる疫病神のような男・阿藤と出会い、苦労の末、娘・鮎美(広瀬すず)を遺したまま亡くなった。現在の写真が存在しないため、学生時代で時間が止まってしまったかのように、広瀬すずが二役を演じる娘の鮎美と生き写しの顔のまま、遺影として額縁に収まっている。未咲には、輝いていた高校時代しかない。彼女は、鏡史郎によって書かれた私小説『未咲』の中、あるいは、彼と共に書いた卒業式の代表あいさつの文章の中でのみ生きている。彼女には確かに血を分けた娘がいて、一度は愛した男性がいたはずなのに、彼女の中にも、映画の中にも、それらはなかったことにされ、切り取られた「輝かしい青春」だけが画面の中心でぽっかりと浮かんでいる。そして、まるで巫女かなにかのように、真っ白な服を着て傘を持った2人の少女が、巨大な犬2匹と共に、未咲が中央に君臨する神話的世界を守っているのである。