「銭湯映画」は時代を映す“鏡”ーー世の中の変化に合わせて生まれた、新しい意味と物語性

 実際、『湯を沸かすほどの熱い愛』に登場する銭湯は、もう長いあいだ休業中という設定だった。というか、そもそも主人公が“末期がん”という設定は、観る者に確かな“終わり”を予感させるものであり、それはある意味“銭湯”そのもののメタファーであったと言えるだろう。さらに言うならば、映画『わたしは光をにぎっている』のキャッチコピーである「どう終わるかって、たぶん大事だから。」が、いみじくも表しているように――そう、近年の“銭湯映画”は、知らない人同士の“交流の場”というポジティブな意味合いだけではなく、“失われつつある場所”という意味合いも、強くあるのではないだろうか。そこに、どれほど居心地の良さを覚えようとも、それはもはや、いつまでも続いていくものではないだろうという“予感”。それが今日の“銭湯映画”に、深い陰影と奥行きを与えているように思うのだ。しかしながら、そんな昨今の“銭湯映画”のトレンドに、新たな一石を投じる強烈な映画が登場した。昨年の東京国際映画祭スプラッシュ部門で監督賞に輝いて以降、世界各地の映画祭で賞に輝くなど、国内外で高い評価を獲得している田中征爾監督の映画『メランコリック』(2018年)だ。

『メランコリック』

 名門大学を卒業したものの、ろくに働きもせず実家暮らしを続けていた青年が、ひょんなことから近所の銭湯でアルバイトをすることになる物語。千葉・浦安市の「松の湯」をロケ地として撮影された本作(ちなみに、この銭湯は映画『ケンとカズ』のなかにもチラリと登場する)は、銭湯という“空間”に新たな解釈を与える画期的な一作となっていた。たまたま訪れた近所の銭湯で、高校の同級生の女の子に再会した主人公。その偶然に気を良くした彼は、その後銭湯に通い続けるどころか、そこでアルバイトを始めるのだった。自宅にひきこもりがちで、他者と接する機会もほとんどなかった彼の物語は、そこから急速に動き始める。ここまではいいだろう。

『メランコリック』

 しかしながら、彼はやがて知ることになるのだ。その銭湯が閉店後、裏社会の死体処理場として使われていることを。そして、彼以外の従業員は、その事実を知るどころか、実際にその作業に従事していることを。人が大の字になって横たわれる広さがあり、水回りも良いので後片付けも楽。しかも、最後はボイラーで焼くこともできる――なるほど、これほど好都合な場所が、他にあるだろうか。倫理的なことはさておき、これは新たな“発見”だったと言えるだろう。しかも、経営的な赤字を補う、それなりの収入も得られるという。一見すると、ごく普通の昔ながらの銭湯であるにもかかわらず、そこには利用客も知らない深い“闇”が広がっていた。そう、昔と同じであるはずなどないのだ。時代は刻々と変化し続けているのだから。こうして『メランコリック』は、“再発見”や“ふれあいの場所”としての銭湯から、さらに一歩進んだ意味合いを、映画のなかで描き出してみせたのだ。

 歌は世につれ、世は歌につれ……とは、歌謡曲の世界でよく言われることだけど、“銭湯映画”もまた、世の中の変化に合わせて、緩やかに変化を遂げている。かつての『時間ですよ』のような賑やかな場所から、“再発見”される場所へ。さらには、失われつつある場所、そして利用客ですら知らない、秘密の仕事が行われている場所へ。来年に東京オリンピックの開催を控えた今、都市の再開発や外国人客の受け入れなど、銭湯はまたしても新たな変化のときを迎えている。そのなかで失われてゆくのか、あるいは新たな形で生まれ変わってゆくのか。ちなみに、『メランコリック』の上映会を行った東京・渋谷区の「改良湯」や、『わたしは光をにぎっている』のトークイベントを行った東京・杉並区の「小杉湯」など、入浴以外のイベントに積極的な銭湯も、現在は数多く存在している。そして何よりも、そんな変化する時代のなかで、“銭湯映画”は果たして今後、どんな物語を描き出してゆくのだろうか。時代を映す“鏡”としての“銭湯映画”に、引き続き注目していきたい。

■麦倉正樹
ライター/インタビュアー/編集者。「リアルサウンド」「smart」「サイゾー」「AERA」「CINRA.NET」ほかで、映画、音楽、その他に関するインタビュー/コラム/対談記事を執筆。Twitter

■公開情報
『わたしは光をにぎっている』
新宿武蔵野館ほか全国公開中
監督:中川龍太郎
脚本:末木はるみ、中川龍太郎、佐近圭太郎
脚本協力:石井将、角屋拓海
出演:松本穂香、渡辺大知、徳永えり、吉村界人、光石研、樫山文枝
配給:ファントム・フィルム
(c)2019 WIT STUDIO/Tokyo New Cinema
公式サイト:phantom-film.com/watashi_hikari/

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