SNS全盛期に響く「自己肯定感」に関する物語 『殺さない彼と死なない彼女』の“ここにいて”というメッセージ

 誰かと肩をならべて歩くことの尊さは、その誰かがいなくなってみないと分からない。おなじ歩幅、おなじリズム、おなじペース……それらがしっくりくる誰かを見つけることは、とてもとても難しい。開巻直後から高校生の男女3組がそれぞれに肩をならべて歩く姿が活写される『殺さない彼と死なない彼女』には、そんな「誰か」との愛おしくかけがえのない時間が刻まれている。

 「殺」と「死」の文字がならぶタイトルから感じるどうにも剣呑な雰囲気と、それに対して学園モノというギャップ。実際に主な舞台となるのは学校であって、校内は柔らかな陽光に満たされているものの、冒頭からひっきりなしに「殺すぞ」「死ね」「死にたい」といった言葉が飛び交う。いずれもネガティブな印象を与える言葉だが、誰でも一度くらいは口にしてしまったことがあるのではないだろうか。ネット上でも頻繁に見かける。これは、「お腹が空いた」「眠たい」といった、私たちが日々つい口にしてしまうものと同じような軽さで発され、そこに何か重要な意味合いがあるようには思えない。

 「殺すぞ」と「死ね」が口癖の退屈な高校生活を送る小坂(間宮祥太朗)は、「死にたい」が口癖のリストカット常習者でありながら、“ゴミ”となったハチ=死骸を埋葬しようとする鹿野(桜井日奈子)に興味を抱く。そんな彼らの関係と並行して描かれるのが、愛に飢えた少女・きゃぴ子(堀田真由)と、彼女をいつも見守る地味子(恒松祐里)の関係。そして、つれない態度を取り続ける八千代(ゆうたろう)に対し、手を替え品を替え告白を繰り返す撫子(箭内夢菜)の関係だ。

 本作は、「自己肯定感」に関する物語だといえる。TwitterやInstagramをはじめとする、SNS全盛期である昨今。見知らぬ誰かに褒められ、肯定されることがあれば、思わぬところで否定され、心無い言葉に傷つけられることもある。こんな時代だからこそ、簡単に自己肯定感を得ることは可能だけれど、反対にそれが難しいのもまた事実。かといって、自分で自分自身を肯定していくことはなかなか難しい。そこにはやはりつねに、「他者」の顔がチラつくからだ。

 本作に登場する6人の男女もまた、それぞれにそういった問題を抱えている。与える者、与えられる者ーー他者との関わり方はさまざまだ。先に述べたように小坂の乱暴な発言は、あくまで攻撃性を備えたものではない。それは向き合う相手に対しての、ときに照れ隠しであり、ときに愛情表現でもあるのだ。“語彙力の欠如”と言ってしまえばそれまでだが、それらの言葉の響きにあるニュアンスは豊かであり、ここに演じ手の力も感じる。映画を観ている私たちは、やがてそれが“好き”と同義に聞こえてもくることだろう。

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