塩田明彦がとりかかった映画史上の宿題 『さよならくちびる』が描いた男と女と一台の車

 貧困カップルと穴の空いたボート。まさに窮乏著しい大映の掉尾を飾る傑作『遊び』をなぞるかのように、『さよならくちびる』は現在と過去を自在に往還しつつ、一台のSUVの中の不機嫌な三人の男女そのものに還元されていく。ただし彼らはもう、かつてのように孤独ではない。『遊び』のカップルが最後のビート板にいたるまで孤立無援だったのと異なり、「ハルレオ」には、悲愴なまでに熱狂的なファンが付いている。このファンたちはひょっとすると、本人たち以上にこの音楽ユニットへの愛に忠実だ。それから同業者たち、見ず知らずのバンドメンバーの誰かがたがいに声を掛け合うこともなく「ハルレオ」は良いと思っていたり、解散の噂を嘆いていたり、各地ライブハウスの支配人たちが「ハルレオ」に最後の華を持たせるべくどうやら連絡を取り合っている様子であったり。

 「さよならくちびる」とユニットは声を合わせて謳い上げる。「さよならくちびる 私は 今 誰に 別れを告げるの 君を見つめながら」。

 それが愛だと気づいてはいる。愛は始めることよりも、続けていくことの方がはるかに難しい。不可能なのではないかとすら思うことしばしばだ。「さよならくちびる 君は 今 なんて 優しく 悲しい 眼差しをしているの」。

 サビの中の一人称「私は」は、こうして二人称「君は」に転化していく。「私」は「君」に差し出され、預けられ、ゆだねられていき、離反していく。そしてもう一回、一人称に回帰する。「さよならくちびる 私は 今 私に 別れを告げるよ ありがとう さよなら」。真に別れるべきは、きょうの「私」だ。

 かつてゴダールは初の長編映画『勝手にしやがれ』(1959)を作りながら、「男と女と一台の車があれば、映画ができる」とたけだけしく断言した。映画史上の有名な言葉だ。ゴダールが敬愛するロッセリーニの『イタリア旅行』(1954)を模範としつつ出た言葉だ。しかし『勝手にしやがれ』完成後、ゴダール自身は早くもそれを否定せざるを得ない。「自分には車の疾走を撮ることができない」と。「私にはロベルト(・ロッセリーニ)が作るような単純でしかも論理的な映画を作ることはできないからだ」。この映画史上の難易度高き宿題を、今、塩田明彦は威厳をもってとりかかった。女、もうひとりの女、そして男、一台の車。濃縮還元されたそれらは、可能なかぎり裸形で「私は」「君は」とたがいに居合わせつつ、コトバをコダマさせる。転化が起き、回帰が起き、そして次の変化が起きる。その変化の瞬間がまばたきとまばたきのあいまに見える、ということが映画。だから、女、女、男、一台の車、三台のギター、というふうに変化の裸形をもとめ、そこにある事物は濃縮還元されていく。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『さよならくちびる』
全国公開中
監督・脚本・原案:塩田明彦
出演:小松菜奈、門脇麦、成田凌、篠山輝信、松本まりか、新谷ゆづみ、日高麻鈴、青柳尊哉、松浦祐也、篠原ゆき子、マキタスポーツ
主題歌:Produced by 秦基博、うたby ハルレオ 
挿入歌:作詞作曲 あいみょん、うたby ハルレオ
製作幹事・配給:ギャガ
制作プロダクション:マッチポイント
(c)2019「さよならくちびる」製作委員会
公式サイト:gaga.ne.jp/kuchibiru/

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