菊地成孔の『天才作家の妻 40年目の真実』評:よく言うよね<愛すべき佳作><小品だが良品>でも、今時そんなモンあるのか?この作品以外で
肝心要のストーリーは
もう、脚本の巧みさ(これ見よがしのスキルフルではなく、もう安定の軽い素材を、手を抜かずにしっかり調理して、ホスピタリティ満点である)に、安心して乗っかり、誘導されるがままに、笑ったり、ドキドキしたり、考えさせられたりしていると、最後のオチが来る。ここのショックとその直後の感動を生じさせるさじ加減は抜群で、とにかく品が良くて良くて感心してしまう。
オチ以外は、全部書いてしまっても良いぐらいだ。何せ、宣伝媒体である、小さなフライヤーから、公式サイトまで、ほとんど、オチ直前までの、物語設定が全部書いてある(笑)。私感では、もっと伏せても良かったのではないかと思うほどだが、まあ、事前に知っていても鑑賞の妨げにはならない。
地味ながら実直に執筆活動を続けていた夫に、ある日、ノーベル文学賞受賞の知らせが入る、ベッドの上で手を繋いで飛び跳ねる老夫婦、しかし、夫の作品は、少なくとも夫が単独で執筆してはいない。どうやら妻が関与している。
「手柄の取り合い、と言うバディもの」として
こんなによく出来た作品はない。静かだが凄まじいサスペンスは開始直後から一点に集中する。それは「果たして、妻はどのぐらいの割合で、夫の小説に関与していたか?」である。極左では、妻は完全なるゴーストライターで、夫は1文字も書いていない、極右では、妻はちょっとしたアイデアをキッチンやベッドからアシストしただけ、しかしそれが作品のコアとなる、と言った具合である。
昨今は、1曲の良くできたポップチューンのクレジットが、作詞、作曲、編曲、アイデア提供、共作者、等々、10名にも及ぶことがある。「芸術とは、作家たる芸術家個人が、たった一人で書いている(描いている)」と云うロマン派的な幻想は、文字通り、音楽におけるロマン派が勃興する19世紀に肥大し、20世紀までなだれ込んだ幻想で、中世の宗教画や建築を、ベラスケスやダ・ヴィンチ、ブラマンテやミケランジェロ等が、たった一人で作り上げた、と思っている人々さえ、20世紀には存在した筈だ。
単に物量的なスペクタキュラがある建築や大絵画、あるいは2時間に及ぶ交響楽やオペラでなくとも、やろうと思えば一人だけで創出することが十分可能である小絵画、小説、俳句や詩、軽いポップソングですら、バディの存在がビハインドされている可能性は常にある。まだ誰もが、佐村河内事件をご記憶の筈だ、あの事件が示唆するものの大きさは、アンフェアだと思うと、取り囲んで徹底的に責め潰すことしかできない、才能のないいじめられっ子の集団であるネット社会の幼稚さに押さえ込まれてしまい、芸術論としての大きな問題提起のチャンスを潰してしまった。
本稿を筆者は紛れもなく一人で書いていることを神に誓うことはできる。しかし他回によっては、共に鑑賞した者の感想や発見から大きなインスパイアを受けたり、場合によってはそのまま原稿に含ませてしまう場合も、例外的ではあるが、無くはない。その場合、市井の民間人であり、文筆業者でも無い知人の名を、ある種の倫理的誠実さによってクレジットすべきだろうか?