二分された“東京”と“地方”は何を意味する? 『ここは退屈迎えに来て』が描く人々の心の事情

 地方都市近郊の国道によく見られる、広い道路とその両側にチェーン店が並ぶ風景。地方で生活する多くの人々が日々目にしているが、この眺めを映画作品のなかで見る機会は少ない。実際の店舗名が次々に出てきてしまうという事情もあるのかもしれないが、この風景が映画で描かれにくい最も大きな理由は、それがあまりにもありふれた、つまらないものだと考えられているからであろう。どうせ田舎を映すのであれば、里山や港町の方が圧倒的に“映画的”である。

 広い駐車場に大きな看板のかかったラーメン屋や書店、学校帰りの学生たちが利用する場末のゲームセンター、田んぼに囲まれぽつんと立ったラブホテル、地方限定のファミリーレストラン。原作者・山内マリコ(『アズミ・ハルコは行方不明』など)の出身地でもある富山県で撮影した、映画『ここは退屈迎えに来て』の舞台となる風景は、日本各地の同じような規模の地方都市のそれとほとんど変わらないように見える。私自身、自分が生まれ育った別の地方都市がそのまま映っていると錯覚したくらいだ。

 しかし、本作『ここは退屈迎えに来て』で、あらためて大きなスクリーンを通してこれらの光景を眺めたとき、意外にも一種の感動を与えられたことも確かだ。なぜなら、これこそがある意味で現在の日本を代表する風景だと思えるからである。

 大都市・東京の人口は約1000万人で、大阪と合わせても2000万人に満たない。本作のような光景が見られはじめる郊外を除けば、この風景に普段全く触れないような人々というのは、さらに絞られてくる。それは日本全体からすればごく少数派といえよう。逆に農村地帯は過疎化で人口が減少し続けているため、たいていの日本人は、本作で描かれているような各地方都市に分散していることになる。さらにそこでは乗用車が交通手段となる場合が多いことを考えると、典型的な日本人を描くなら、こういう舞台を選ぶのが、むしろ一般的であるはずなのだ。

 原作となった同名の短編集は、まさにこのような地方に生きる主人公たちの物語だ。劇団MCRを主催し、ラジオ、TVドラマの脚本を手がける櫻井智也は、プロデューサーや廣木隆一監督の要請によって、これら複数のエピソードを、『パルプ・フィクション』のように時系列を組み換えつつ、一つの群像劇としてまとめている。2004年、2008年、2010年、2013年と、それぞれの年で描かれるのは、地方都市の日常と、そこで生きる若者の恋愛模様である。彼らのなかには、「東京」と「地元」という価値観が強く根ざしている。

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