平手友梨奈主演『響 -HIBIKI-』の漫画的な手法 “天才”を描く試みをどうアプローチしたか
だが、これはあくまで小説を書くことを題材にした物語である。演技だけでは説得力不足になってしまう。小説の天才的才能というものを、作品のなかでどう表現すればいいのか。ここで使われているのは、よく漫画作品に見られるような手法だ。
例えば、バトル系の漫画において読者を惹きつけるためには、常に以前よりも強大な敵を主人公にぶつけていかなければならない。いま戦っている敵が、以前の敵よりも強いということを読者に印象づけるには、登場人物の誰かに、こうしゃべらせればよい。「なんてこった、前の敵よりも、こいつは比べようもないくらい強い…!」「お前が倒した敵は、四天王のなかでも最弱…!」などというように。
基本的に、本作で行われているのも同様のやり方だ。鮎喰響が天才であることを認める言葉を、プロの編集者や作家たちに吐かせることによって、本作は響の書いた文章を登場させることなく、彼女の天才性に説得力を持たせようとする。響の天才を直接的に示す証拠を一切出さない…つまりテーマの中心をあくまでブラックボックスとして描くという試みである。そして、この“逃げ”ともいえるアプローチによってでしか、人智を超えた頭脳的天才を描くという表現は成立し難いのも確かである。
また、舞台となる文学界の描き方について、本作は誰もが想像するような類型的な表現しかできていないところもある。文学賞を題材とした映画に、筒井康隆原作、鈴木則文監督の『文学賞殺人事件 大いなる助走』(1989年)があるが、これは文壇自体への批判や、小説家たちへの意地悪な視点を含め、興味深い描写にあふれていた。『響 -HIBIKI-』の描き方を見ていると、そのように文学界に対して具体的な問題提起をしたり、本物の才能を表現するという部分には、本当は興味が無いのではと感じられる。そもそも、それを描き得る能力は、原作にも映画版のスタッフにもないのではないか。
その代わり主人公の響には、ある役割が与えられている。それは、「面白い小説」、「つまらない小説」に分類された文芸部の本棚が暗示するように、世の中の出来事をジャッジし、間違ったことや曲がったことに制裁を与え、正していくというものだ。
「おめえは本当のワルじゃねえ。ワルに見せるのが好きなだけらしいな」
黒澤明監督の『用心棒』で、飯屋の親父が言うセリフだが、私が本作を観ている途中でこの部分を思い出してしまったように、響という少女もまた、善悪の価値観から自由でいるように見えて、じつは正義のために独自のやり方で規格外の能力を発揮するという、『ブラック・ジャック』の無免許天才外科医や、『御用牙』の暴力によって悪と戦うかみそり半蔵などと同列に並ぶような、コミック的ダークヒーローなのだと感じさせる。つまりここでは、「天才」や「小説」というものは、ヒーローに与えられた特殊な属性に過ぎず、「文学界」という舞台は、キャラクター同士がバトルするリング以上の意味はたいして持たせられていないということだろう。
だが、これが一般的な漫画作品における、ある種の王道的な物語の作り方なのである。だから本作を楽しむには、そのことを理解したうえでコミック的な娯楽ととらえることが正しいように思われる。