小野寺系の『未来のミライ』評:いままでの細田作品の問題が、作家的深化とともに表面化

懸念されていた脚本力の低下

 細田守監督は、2000年近辺から監督として継続的に劇場版アニメーション作品を手がけ、その切れ味ある演出力によって注目を浴び続けてきた。『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』で、その手腕は一部で話題を呼んだ。いま見ても、この作品は細田監督の非凡さを説明するのにふさわしい勢いがある。

 さらに『時をかける少女』の内容的成功によって、才能あるアニメ監督として一般的に認知され始めた。コンスタントに劇場作品を発表し続けていくことで、次代の巨匠として「ポスト宮崎駿」とささやかれるようにもなった。

 まさに順風満帆といえる状況だったが、そんな快進撃の裏に大きな懸念材料があったことも確かだ。その一つが、脚本力の問題である。

 細田作品は、『時をかける少女』から、脚本家・奥寺佐渡子が脚本を担当してきた。実写監督の相米慎二監督に評価されることで、彼女の脚本家としてのキャリアが始まっているように、カメラの長回しや引いた構図、さらに『おおかみこどもの雨と雪』では、まさに『台風クラブ』の状況を再現するなど、相米監督の実写演出をアニメーションのなかで一部再現しているようにも見える細田監督の作家性と奥寺脚本は、やはり相性がいいように感じられる。

 その後、次第に細田監督自身も、劇場作品を作るたびに脚本に手を入れるようになっていく。『おおかみこどもの雨と雪』では細田監督が共同で脚本を書き、『バケモノの子』からは、おそらくアドバイスは受けながらも、少なくともクレジット上では、単独で脚本を書いている。いずれにせよ、脚本については細田監督の担当する分量が増えていっているのは確かだ。

 『バケモノの子』のぎこちない物語の進行からも分かる通り、細田監督が本格的に脚本を書き出してから、物語の展開や台詞などを中心に、クオリティー上の複数の問題が噴出し始めた。説明的な台詞が増え、テーマを直に語らせるようにもなった。本作の終盤で、成長した未来がくんちゃんに語りかける内容は、その最たるものであろう。

 思えば、細田監督の非凡さというのは、既存のアニメーションの常識を打ち壊すような描写の面白さにあったはずだ。きわめて商業的な内容で、テクノロジーを主要な要素とするはずの『デジモンアドベンチャー』に、生活のリアリティや、暴力のおそろしさを植え付けようとするなど、ある意味でジャンルを否定するような反逆的描写にこそ、パンキッシュな快感が存在していたはずだ。そこには「アニメをなめるな!」という迫力があった。しかし、監督自身が次第に作品世界を一から構築し始めたことで、カウンター精神や勢いは徐々に失われてきたように感じられる。

 宮崎駿監督は、設定も演出も絵コンテも、そして発想力も、スタッフの誰より抜きんでているような圧倒的存在である。そこまでのオールマイティーな技量があるわけではない細田監督が、そんな怪物的な才能に近づき、乗り越えるような作品をつくるためには、こだわりを捨てて適材適所の異なるスタッフの才能に、作家的役割を分担させるしかないのではないだろうか。そのためには、万能的な監督としてのイメージから脱却し、得意な部分に注力するような思い切りが必要だと思える。

払しょくされなかった監督の女性観

 もう一つの問題は、細田監督の持っている独特な「社会観」だ。『おおかみこどもの雨と雪』では、ひたすら献身的に子育てをする母親を主人公として描いたが、その描写が、主に女性の観客の反発を招いた。表面的には女性を尊敬しているように見えて、その裏には母性を神々しく理想化し、子育ての役割を押し付けようとする男性独特の身勝手さがあることを、そういった問題に日々直面している敏感な観客に見抜かれてしまったのである。

 細田監督の近年の作品は、自身の実生活に連動している部分がある。女性の頑張りを賛美するという要素には、配偶者への感謝の念の表れという、プライベートな意味もあるだろう。だがそこに悪意がないからこそ、無意識下の偏った男女観というものが表に染み出てしまった瞬間に、取り繕った表面的な低姿勢が、逆に“癇(かん)にさわる”ことになる。

 面白いことに本作は、“くんちゃんの父親”というかたちで、表面上、女性にいい顔をしてしまうという自身の作家性へのアイロニカルな言及がある。そして、妻に「(女性に)見透かされている」と劇中で指摘させることで、問題を自己分析できているところを、暗に観客にほのめかしているのだ。働くママと、主夫業に奮闘するパパという、細田作品ではいままでなかった、家庭の関係性の変化を見せることも、そこへの対抗措置と言って差し支えないだろう。

 だが成長した未来が、「行き遅れ」を深刻に気にしたり、お雛様を欲しがるくんちゃんに、母親が「男の子でしょ」と言い放つ場面を、とくにエクスキューズなく描いてしまうような状況を見ると、細田監督の女性観の問題というのは、根本的なところで払しょくされたわけではないことが分かる。これは細田監督の内面のみにとどまる問題ではない。女性をある範囲に押し込めるような意識を持った作品は、女性を社会的に追い詰める空気を醸成することに加担してしまうことになる。本作を見ると、細田監督はまだあまりその深刻さを理解できていないのではと思えてしまう。

 もちろん、日本のアニメーションの作り手全てが、そのような保守的価値観に縛られているわけではない。細田監督は、かつてTVアニメ『少女革命ウテナ』のエピソード演出をいくつか手がけているが、この作品こそ、女性に与えられた役割を否定し、少女たちが「革命」を成し遂げていくテーマを持っていた作品だった。それを中心になって手がけた幾原邦彦監督や、脚本の榎戸洋司らは、いまだ男女の役割を区分けする日本の旧弊な社会を革新する意志を明確に持っていた。その後に作られた細田監督作品は、明らかにそういう社会観から後退したものになっている。

 だが、本作のメッセージに良い点がないわけではない。子どもは親の教育だけでなく、ある程度勝手に学習し、自分の力で様々なことを学んでいくものである。くんちゃんの両親が「(親の教育は)最悪じゃなければいい」と語り合うように、親の役割を一部取り除くような表現をしているところは進歩的な部分だといえるだろう。

 『未来のミライ』は、いままでの細田作品の問題が、作家的深化とともに一気に表面化してしまった作品だといえるだろう。そしてそれは、細田守監督の限界を強く意識させるものだった。その演出力才能を再び発揮させ、日本映画の第一線にとどまろうとするならば、新しい発想のプロデュースが不可欠になるのではないだろうか。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『未来のミライ』
全国東宝系にて公開中
声の出演:上白石萌歌、黒木華、星野源、麻生久美子、吉原光夫、宮崎美子、役所広司、福山雅治
監督・脚本・原作:細田守
作画監督:青山浩行、秦綾子
美術監督:大森崇、高松洋平
音楽:高木正勝
オープニングテーマ・エンディングテーマ:山下達郎
企画・制作:スタジオ地図
配給:東宝
(c)2018 スタジオ地図
公式サイト:http://mirai-no-mirai.jp/

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