宮台真司の月刊映画時評 第9回(後編)

宮台真司の『ザ・スクエア 思いやりの聖域』評:この世に存在しながら存在しない、子供の指し示す幽霊性

現代アートを批判した映画ではない

 この映画を現代アート周辺のスノビズムを批判した作品だと受け取る人がいますが、間違いです。言うこととやることが一致しないクズを批判しているという受け止め方もあるけど、それも間違い。現代アート批判なら1960年代に論点が出尽くしたし、言うこととやることが一致する存在形式がこの社会にはないからです。正しいアートの在り方や生き方の問題じゃない。僕らが生きる近代社会がそもそもどういう構造なのか。それがしっかりと描かれた映画だと思います。その意味でプロの社会学者から見て非常に「まとも」な映画です。

 この映画が提示している問題を理解するひとつの鍵は、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングと猿絵(猿の描いた絵)はどう違うのかという60年代に生じた議論でしょう。ポロックがアクション・ペインティングを始めた理由は簡単です。当時、アートは公民権運動を始めとした社会のリベラルな風の最先端に立つべきだと考えられていました。権力に対しては反権力、権威に対しては反権威、制度に対しては反制度という立場を取るべきである、と。

 ところが最もスキャンダラスで先進的な表現をやると、誰もが“すげぇ!”と真似します。結局は、反権威という新しい権威、反制度という新しい制度が誕生しただけ。エピゴーネンを振り切るためにラディカルさを突き詰めれば、人間が描いたようには見えない絵に行き着き、猿絵と変わらなくなります。違いは美術館という枠や額縁という枠(スクエア)の中に置かれているかどうかだけ──デュシャンの「泉」問題です。だったらそれも美術館という制度に依存した寄生虫になります。ならばストリートで猿絵を描くしかありません。

 でも、そうすると、ストリートで描かれた猿絵の「意味」を解読できるのは、いま話した「アート界隈の悩み」を知る内輪だけになります。もはや社会に向けた発信ではなくなり、アート界隈という内輪に向けた、「死ぬまでやってろ」的な文字通りの「猿芝居」の神経症的反復に頽落します。実際そうなりました。現代アートは内輪の猿芝居です。ただし後の議論を先取りすると、「内輪の猿芝居」の「神経症的反復」を批判するなら必ず「オマエモナー」。問題はアート界隈に留まらず、商業主義を柱とする近代社会にさえ留まらず、文字言語を基盤にしてまわる文明=大規模定住社会の全てが見舞われる、普遍的問題だからです。

 話を戻すと、前衛といっても所詮は「反権威という権威」になる。それを批判する営みさえ直ちに権威になる。ならば批判の批判の批判…という具合に累進する他ないが、それをすると内輪にしか理解されない神経症的な猿芝居になる。その事実に最も深く悩んで気がふれたのが写真家・中平卓馬。「反なんとか」を標榜して誰もがしないことをすると、誰もが真似する。振り切ろうとすると、逆に美術館や写真雑誌という制度に依存してしまう。それも振り切ろうとすると内輪的な猿芝居の神経症的反復になる──。あれこれ突き詰めた結果、彼は問題がどこにあるかを発見します。「主体」つまり「選択するという意識」です。

20世紀半ばには現代アートに未来がないと確定していた

 そもそもの問題は主体が存在することだ。権威に対して反権威を選ぶとか、権力に対して反権力を選ぶとか。いずれにせよ選ぶのであれば、選びは摸倣できる。だが、選択を摸倣するという選択がつくりだす選択の連鎖こそが、そもそも権威の定義じゃないか──いけないのは「選択する意識=主体」である。と考えた中平は「なぜ、植物図鑑か」という1972年の文章で植物図鑑を見本にせよと言い出す。でも「言うこととやることが一致」したのは強度の記憶障害を伴う人格崩壊を経て以降の話。以降の植物のカラー写真が凄い。中平卓馬だけが、主体の喪失を代償に、限界を突破した。他の誰にも不可能な場所に到達した。

 このエピソードの教えは、僕らが社会を普通に生きながら「権威に対する反権威」「制度に対する反制度」を貫徹することの構造的な不可能性です。ということは、どんなに遅くとも1970年代半ばまでに現代アートに未来がないことが確定していたわけです。それから半世紀近くも経って、今さら現代アートを批判する意味などあるはずがない。だからこの映画を現代アート批判だと見るのは単に無教養です。しかしそれでも“界隈”が今もあります。なぜでしょう。

 社会システム理論で説明します。システムは、社会であれ生物であれ、境界線を設定し、境界線の内側でなされる営みで境界線を再生産する「何か」です。アートのテーマは社会批判だと言う人もいますが、アートによって社会が動いた歴史はありません。それを制度への依存や権力への依存が理由だとする人もいますが、これを批判する営みは構造的に累進を余儀なくされ、気がつくと“界隈”にしか意味を持たない猿絵に行き着きます。それが、映画が描く「内輪のスノビズム」です。でも構造的問題だから今さら批判しても仕方ありません。

 ただしメタファー(隠喩)としてならば意味がある。まさにこの映画はそのようにアート界隈を「用いて」います。アート界隈を襲う構造的問題はアート界隈だけのものじゃない。僕らの生き方がまさに「内輪のスノビズム」だからです。いわく「弱者も同じ人間だから擁護すべし」。クズな物言いだよ。そこで「人間」としてカウントされるのは恣意的な境界線の内側だぜ。「動物も同じ生き物だから殺しちゃダメ」。クズだ。てめえは朝食にベーコン食べただろう。「国粋こそ素晴らしい」。クズだ。敵国にこそ国粋が溢れているんだぜ。これらも構造的問題です。言葉を使うことは、いま僕が使っている言葉を含めて、経験の裏打ちもなく分節する営み、つまりアプリオリに境界線を引く営みだからです。

 僕らが知るアートの定義は初期ロマン派のものです。「それを体験した人を元に戻れなくする」つまり治らない傷をつける。反対が娯楽=リ・クリエーションで、シャワーを浴びて回復する。単に美しいのは、アートというより娯楽です。傷をつける衝撃があれば、美しくなくていい。でも未見・未聴時に衝撃があっても、既見・既聴化して定番化すれば傷をつける力が消えます。“それじゃダメ、元のように生きられなくするぞ”と頑張ると、「一般アート界隈」を環境とする「特殊アート界隈」が作られます。「一般アート界隈」は社会一般を環境にした営みですが、「特殊アート界隈」は「一般アート界隈」を環境にした営みです。だから社会一般から見て意味不明になります。「ただの猿絵じゃん。死ぬまでやってれば? 俺に関係ないし」。運命づけられた現代アートの本質です。

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