リドリー・スコットがアメリカ映画を退廃させた? 荻野洋一の『ゲティ家の身代金』評
今年のアカデミー賞授賞式シーズンに日本でも大きく取り上げられたことだが、孫の身代金支払いを拒否するけちん坊な石油王ゲティ氏を演じ、最年長記録でアカデミー助演男優賞候補にノミネートされたクリストファー・プラマーは、じつは代役に過ぎない。本当はケヴィン・スペイシーが老けメイクを施して演じ、同作の撮影はすでに終了していた。仕上げの真っ最中である昨年10月末、ケヴィン・スペイシーの同性に対するセクハラが被害者から告発され、スペイシーは降板。12月の全米公開まであと2ヶ月というところで、リドリー・スコットは代役にプラマーを立てて撮り直しを決断する。ローマのハドリアヌス帝の別荘跡地を孫のポールといっしょに散策する回想シーンは、現地でロケする時間がなく、スペイシーで撮った元のロケ素材と、スタジオで単独撮影したプラマーの歩きの合成だそうだが、たった9日間でクリストファー・プラマー分の撮り直しをやり遂げ、プレミア試写こそ中止せざるを得なかったものの、クリスマスの全米公開初日には間に合わせたとのこと。80歳リドリー・スコットの行動力と決断力の健在ぶりが証明されたとはいえ、なんともハリウッドらしからぬドタバタ事件ではある。
ここで第2の事件が発生したことも記憶に新しい。再招集されたミシェル・ウィリアムズの撮り直し分のギャラが$1000弱(約10万円強)だったのに対し、マーク・ウォールバーグのギャラは独自に値上げ交渉した甲斐あって$150万(約1億6千万)に達したらしい。公開日が間近に迫りあせっていたプロデューサー側は、ウォールバーグの要求をすぐに呑んでしまったのだ。ところがこの1500倍ものギャラ格差が明るみに出て、ウォールバーグは非難され、全米映画俳優組合は報酬協定違反を調査すると発表した。あわてたウォールバーグはこの$150万をTime's Upの運営組織に寄付する。それでも収まりつかぬミシェル・ウィリアムズは、ゴールデングローブ賞授賞式に「#Me Too」の発起人タラナ・バークをつれて出席し、全出席者によるブラックドレス・デモンストレーションを巻き起こした。
なにやら映画本篇からどんどん話題がそれていくが、それが『ゲティ家の身代金』という作品の運命なのかもしれない。決してつまらないわけではなく、興味深い細部を持ってはいても、心ここにあらずというか、誘拐のサスペンスが空洞化し、そのまま穴の中へ停滞していくような本作の感触は、公開前に起きたセクハラ告発による降板事件、さらにはギャラ格差がそのまま男女格差問題へとスライドしていった事件によって粉飾された。ケヴィン・スペイシーのセクハラ事件が明るみになったとき、ミシェル・ウィリアムズは「もうこの映画は、永遠に葬り去らなければならない」と考えていた(引用:BuzzFeed NEWS|「この映画はもう、葬り去られなければいけないと思った」 ある女優の思い)とさえ述べている。
本作は、リドリー・スコットの代表的なSF映画や史劇スペクタクルを満たしてきた視覚効果による豪華な装飾性に欠ける。犯人グループはイタリア南部マフィアの貧相な末端に過ぎず、むしろ彼らこそ最も人間的ですらある。最もサスペンスを呼ぶ部分は言うまでもなく、孫の命よりも蓄財を優先した石油王ゲティの謎めいた吝嗇家ぶりではあるが、真のサスペンスは映画を取り巻く尾ひれの方にあった。この騒音の渦中でリドリー・スコットという映画作家をめぐる総括を続行すべきではあるまいが、これも本作に似つかわしい騒がしさだろう。これまでその実力に見合った存在感を示せていたとはいえないミシェル・ウィリアムズだが、ここ1~2年ほどの彼女の活躍はめざましい。『マンチェスター・バイ・ザ・シー』『ワンダーストラック』『グレイテスト・ショーマン』と、いずれも主人公の目立たない妻役だったり、少ない出番だったりもするが、日本では未公開に終わった女性監督ケリー・ライヒャルトの『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』(DVDスルー)の助演もあり、これなどは必見である。
ジョン・ポール・ゲティ3世の誘拐という1973年に実際に起きた事件の映画化ではあるが、奇しくもこの事件にインスパイアされて書かれた小説を元に、弟のトニー・スコットが映画を1本作っている。デンゼル・ワシントン主演の『マイ・ボディ・ガード』(2004)で、これはじつに素晴らしい作品だった。ちなみに現実のジョン・ポール・ゲティ3世は誘拐事件後、アルコール依存と薬物依存にさいなまれつつ、映画史の片隅をさらりと(あたかも本作冒頭、誘拐前にローマ市街を歩く少年のように)そぞろ歩いた。ラウール・ルイス監督『The Territory』(1982)および、同作と一部同じキャストとスタッフを共用したヴィム・ヴェンダース監督『ことの次第』(1982)という2本のポルトガルロケの映画に、事件から9年後、26歳のジョン・ポール・ゲティ3世が映っている。
■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。
■公開情報
『ゲティ家の身代金』
全国公開中
監督:リドリー・スコット
出演:ミシェル・ウィリアムズ、クリストファー・プラマー、ティモシー・ハットン、ロマン・デュリス、チャーリー・プラマー、マーク・ウォールバーグ
脚本:デビッド・スカルパ
原作:『ゲティ家の身代金』ジョン・ピアースン著(ハーパーコリンズ・ジャパン刊)
配給:KADOKAWA
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公式サイト:http://getty-ransom.jp/