人間は生きる価値がない存在なのかーー『猿の惑星:聖戦記』が暴く、人間の傲慢な意識
人間の傲慢な意識を暴く「猿の聖典」
新旧『猿の惑星』シリーズの本質的な面白さというのは、人間と猿の立場が入れ替わるという部分に尽きるだろう。この構図は、「人間が地球上で優れた知性を持った唯一の存在」だと信じている多くの観客に衝撃を与え、自分たちが傲慢な意識を持っていることに気づかせるという効果がある。この種の無意識的なプライドやエリート意識というのは、生物の優劣にとどまらず、現実の世界で人種差別や性差別などを生み出す要因ともなっているように思われる。
本作でウディ・ハレルソンが演じている、マッチョでスキンヘッドの白人男「大佐」は、このような意識を行動の原動力にする、分かりやすくステレオタイプな「白人至上主義者」のイメージを背負っている。彼は自分につき従う兵たちを指揮し、ナチス・ドイツのように障害を負った人間を殺害したり、神の名のもとに猿を弾圧させ強制労働させている悪しき人間である。
このシリーズが描く、「なぜ猿が地球の支配者になったのか」という疑問に、大勢の観客はおそらく、知能を持った猿たちが人間を暴力によって支配したのだろうと漠然と予想していただろう。しかし、ここで描かれた真相というのは全く逆で、ウィルスによって数が減った人間たちが、猿に支配されるのではないかと疑心暗鬼になり、逆に暴力によって猿たちを虐殺し、拷問していたのである。より善良で分別があったのは猿の方だったのだ。生き残った人間の多くは「自分たちは優れた存在だ」というプライドによって自分たちの精神を支えているだけの末期的状況に陥っており、猿やウィルスに冒された人間を差別することによって、「俺たちは上、俺たちは上」と念じ続けることで日々を生きていく、卑怯で悲しい存在に成り下がっているのだ。
また、大佐が十字を切って兵士の残虐な行為を祝福していたように、「人間が猿より上」だとする考えの拠りどころとなっているのが、宗教的な裏付けである。旧約聖書には、人間は神が自分に似せて作り上げたと書かれている。つまりここでは、人間というのは神に最も近い、選ばれた唯一の存在である。
英国の自然科学者チャールズ・ダーウィンが「人間は猿が進化した存在だ」とする進化論を発表した当時、多くの人々は従来の宗教観から、そのような考えを受け入れられず、彼をあざ笑う者も多かった。だが今では、進化論は人間の発生において最も信憑性を持った学説になっている。長年の間、進化論を否定してきたカトリック教会でも、近年ではその総本山のローマ教皇が、「聖書に書かれた人間の創造は進化論と矛盾しない」ということを述べ、ダーウィンの学説を部分的に認めている。しかしアメリカでは、未だ進化論を否定している宗教団体もあり、まだまだ猿と人間の関係性を否定する声も根強い。
ダーウィンの学説がセンセーショナルなのは、「人間は唯一の存在である」という既成概念を破った点にある。 そして今回の『猿の惑星』三部作が行ったのは、そのように一部の人間の拠りどころとなってきた宗教的な「神話」を、あえて猿の側に与えてみるという試みである。 本シリーズで描かれるエピソードは、旧約聖書、新約聖書になぞらえている部分が非常に多い。「知恵の実」を食べることで楽園から追放される流れや、カインとアベルの兄弟殺しの物語、そして流浪の民を指導者が導く『出エジプト記』、善良な人間があらゆる受難に耐える『ヨブ記』、そしてキリストの磔刑…。これらのエピソードが、旧版『猿の惑星』へとつながっていくように配置されていく。
新約聖書では「はじめにことばありき」とあるように、「言葉」というものが全ての始まりだという考えが示され尊ばれている。それはまた、言葉を自在に操れるから、人間は他の動物とは違う選ばれた存在なのだという信仰をも意味している。本作では「言葉を失う」という奇病が人類に蔓延することによって、人類は特別な存在から陥落していく。その一方で、言葉を学習していく猿が、その存在へと成り代わっていくのである。この宗教の面からも既存の観念を覆していく試みは、きわめて挑戦的だといえよう。