森山直太朗は“捉えどころがない日常”を表現するーー劇場公演『あの城』千秋楽を振り返って

 シンガーソングライターも劇作家も、人生における特別なシーンを描こうとしがちだ。しかし、本物の人生において、そんな瞬間はほぼ訪れない。御徒町と森山はそのことを深く理解しているからこそ、日常の些末な出来事、取るに足らないような物語を丁寧に紡ごうとするのだと思う。

 『あの城』において、彼らの表現のスタンスがもっともわかりやすく表れているのは、森山が演じる“ナオタリオ”だ。王家の血を引くナオタリオは、とにかく決断しない。人々が“城に戻るべきだ”“いや、ここに残るべきだ”“キャラバンとして新しい旅に出るべきだ”と意見を交わし合っても、ナオタリオはどっちつかずの態度を崩さない。それはおそらく、ナオタリオ(=森山直太朗)が“ある事象に対し「これはAである」と回答を与えた瞬間、そこに新しい思考を巡らせる余地はなくなり、未来のビジョンはやせ細っていく”と考えているからではないか。常識や正しさに捉われるのではなく、変化を続ける自分と現実を見続けることこそが大事ーー筆者が本作『あの城』から感じたメッセージは、まさにそのことだった。


 もちろん、森山のパフォーマンスにも強く興味を惹かれた。ストーリーの一部であるナオタリオと、客席に向かってライブを行うモリヤマナオタリオ(本作のなかで森山は「レスター」「生きる(って言い来る)」などの既存曲のほか、新曲「糧」「自分が自分でないみたい」などを歌唱した)の両面があり、どこまでが演技でどこからが素なのかもよくわからない。ここでも彼は“捉えどころのなさ”を体現しているわけだが、明確に理解できないからこそ観客は、森山の立ち居振る舞いに惹きつけられてしまうのだ。今回の公演に関するインタビューを行った際に彼は「音楽ライブはその時期に作った楽曲やアルバムが遠心力になる場合が多いんだけど、劇場公演の場合は自分自身がスッと舞台のうえに乗っかれる感じがあって。その結果、自分でも気づいてなかった濃い部分、内面のドロドロしたところを曝け出されるような気がします」と語っていた。シンガーソングライターとしての活動だけでは収まらない部分が浮き彫りになった『あの城』。この公演のなかで森山は、自らの表現の本質を掴み直したのだと思う。

■森朋之
音楽ライター。J-POPを中心に幅広いジャンルでインタビュー、執筆を行っている。主な寄稿先に『Real Sound』『音楽ナタリー』『オリコン』『Mikiki』など。

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