『帝一の國』の実写化はなぜ成功したのか? 菅田将暉らが息づかせたキャラクターのリアルさ

 いやはや、面白い。『帝一の國』はシュールなギャグを交えた漫画原作の映画化としては、稀有な成功例である。原作が持つ独特の世界観を壊すことなく映像化し、個性的なキャラクターたちのキャスティングもハマっている。試写で観た後も劇場で再見したくなり、TOHOシネマズ新宿へ赴いたが、当然と言うべきか、観客の反応がすこぶる良い。若手男優が揃っているだけに女性客が多く、褌姿の和太鼓シーン(グラビアアイドルがサラシを巻いて法被姿になるのと同様に定番である)に黄色い声が挙がるのを横目に、極めてバランスの取れた本作の作りを感心しながら眺めていた。

 漫画原作の実写化は、跳ね上がった内容であればあるほど、忠実に実写へ移植するべきだろう。水島新司原作の『ドカベン』(77年)が傑作になったのは、ひとえに監督の鈴木則文が「あれだけ人気があってみんなが読んでいる漫画だよ。だったらいかにしてその通りに実現するかが監督の責任だ。大人のコミックは変えてもいいわけよ。でも子供の夢は壊しちゃいけない。」(『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 VOL.8』)と語ったように、明確な意図を持って〈実写で漫画を再現する〉ことに徹したからである。

 

 『ドカベン』の場合は、主人公はオーディションで選ばれた素人だったが、脇に揃えられた芸達者な俳優たちが、監督の「原作漫画の絵からとび出して来て大活躍する〈実写映像〉の漫画世界を描こう」(『東映ゲリラ戦記』筑摩書房)という意図を汲んで演じたことが成功の大きな要因となった。実際、せんだみつおが両津勘吉を演じた『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(77年)にしても、極端な太眉で口をまごまご動かすことで原作を再現した軽妙な動きを違和感なく実現させていたことを思い出せば、俳優たちが恥も外聞もなく〈実写映像〉に徹することができるかが成否を握る。

 近年の作品で言えば、『ルパン三世』(14年)でルパンを演じた小栗旬と、五右衛門役の綾野剛は、他の出演者に恥じらいや本気になりきれない気分が漂っていたのに比べて、彼らだけは〈実写で漫画を再現する〉ことに全身で挑んでいた。

 前置きが長くなったが、『帝一の國』の成功も、出演者たちのそうした意気込みが幸福な形で映画に結実したからと言えるだろう。冒頭のカメラ目線で独白を始める帝一役の菅田将暉の大仰な演技で、既に映画のテイストを掴むことができるが、菅田が『そこのみにて光輝く』(14年)や『ディストラクション・ベイビーズ』(16年)と同じ真剣さで演じているのが良い。こういった作品だからとバカにしたり、力を抜こうものなら、『惑星大戦争』(77年)における池部良のやる気のない演技が40年経っても批判され続けているように、観客は敏感に察知し、ひいては映画全体の印象にまで影響する。

 

 その点、本作では帝一の父親の吉田鋼太郎にしても、長い舞台歴で培った硬軟自在の演技が存分に発揮されている。吉田と言えば映画では画一的な役が多かったが、ブラック企業の上司役を怪演した『ちょっと今から仕事やめてくる』(5月27日公開)と本作で、ようやく映画でも本領発揮とも言うべき演技を堪能させてくれる。殊に外部生用入学試験問題集を帝一が徹夜で解いた後の採点をめぐるやり取りは抱腹絶倒のハイテンション演技合戦となり、菅田と吉田が各課目と点数を叫んでいるだけなのだが無性におかしい。

 ところで、学園ものでシラケるのは学校内のイザコザなんぞ劇中の人物たちにとっては一大事でも、社会生活に疲弊した観客にとってはどうでもいいと思ってしまいがちなところだろう。学園政治闘争劇である本作がそう思わせないのは、学校内の狭い世界が、世界の全てであるかのように思わせるだけの強固な世界観が構築されているからだ。

 

 事務次官の帝一の父と大臣のやり取りや、恋人の美美子との盗聴防止のための糸電話による会話など、学校外の世界はごく限られた空間と人物のみで見せることで、この異様な世界に不要な夾雑物を混在させて興醒めすることがない。こうして、入学式のくだりから、ルーム長の決定とそれに続く評議会へと、独特の雰囲気である海帝高校の狭い世界を、巧みに描写を積み重ねることで作り上げ、観客を狂騒の生徒会長選挙へと引き入れてくれる。

 ここまで周到にお膳立てしてくれれば、現実のドブ板選挙を思わせる現ナマが飛び交う選挙での滑稽なまでの全力投球ぶりも納得できよう。帝一はくだらない正義感や友情で応援する候補者を翻意するのではなく、あくまで自分本位に計算高く生きている。終盤のピアノのくだりで若干、感情の抑制が緩むのは惜しいが、ドライな人物造形が魅力になっている。

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