『映画ドラえもん』シリーズは大人も魅了し続けるーー新作に受け継がれた藤子・F・不二雄の魂
幼少期をドラえもんと過ごしてきた世代にとって、2005年の声優陣総入れ替えというのは、ドラえもんと離れる大きな転機だった。その数年前から絵のタッチも変わり、慣れ親しんだドラえもんの姿がなくなっていくことは、同時に子供時代の大切な思い出も失っていくことだったのだ。それでも、単行本6巻の最後のエピソードで“さようならドラえもん”をしたら、7巻の最初のエピソードで“帰ってきたドラえもん”になったように、ドラえもんに戻らずにはいられない。たったひとつのエピソードを跨ぐのに、10年以上も掛かってしまったのだが。
ここ数年、春休み映画の重鎮として佇む大長編ドラえもんは、かつての名作のリメイク(第1作の『恐竜』に始まり、『魔界大冒険』や『鉄人兵団』、『大魔境』。そして極めつけは昨年の『日本誕生』だ)と、オリジナル作品をほぼ交互に繰り返してきた。もちろん、藤子・F・不二雄が存命の時分の作品に没頭して、VHSが擦り切れるまで観ていた記憶を抱えて大人になった筆者は、リメイク作品のたびに観るべきか否かと頭を悩ませ続けていたものだ。
結果、劇場に足を運ぶだけの勇気がなかなか出ず、DVDで観た『新・のび太の日本誕生』で久しぶりにドラえもんとの再会を果たし、それまでの抵抗が何と表面的で無意味だったのかと思わされた。大長編ドラえもんの中でも屈指のマスターピースである『日本誕生』には劣る部分はたくさんあるものの、しっかりと藤子・F・不二雄の魂は受け継がれていたのである。未だに聞き慣れない水田わさびの声のドラえもんへの違和感も少しは和らいだのだ。
そうなれば、今回の『のび太の南極カチコチ大冒険』を観ない理由はもうない。意外と幅広い年齢層が集まる劇場に足を運んでみれば、こんな30歳手前の輩でさえも、童心に還ることができる夢の時間が待っていた。南極を舞台に、10万年前にタイムスリップして、仲間たちと力を合わせる。単行本18巻で、わずか10ページしかない「大氷山の小さな家」のエピソードを膨らまして、些細なきっかけの連鎖で大冒険につながるという、想像力に溢れた藤子調の物語になるのだから、ドラえもんの映画は何十年先も決して滅びることはないだろう。
旧シリーズ世代は、そこかしこに現れる懐かしさに必ずや魅了される。日本から遠く離れた世界の未踏の地を訪れるという『大魔境』の要素、地下空間に広がる別世界は『竜の騎士』の要素だ。また『雲の王国』を思い出させるような、広大な地に自分たちの遊び場を作る無邪気さや、『魔界大冒険』や『夢幻三剣士』に登場したような石になった姿にも思わずニヤリとしてしまうだろう。しかしそのどれも、昔の作品との類似点を探すような捻くれた視点を突き破って、純粋に童心に還ってワクワクしてしまう要素になっているから不思議な限りだ。
そして、新シリーズ世代である現役の子供たちにとっても、ドラえもんの持つ最大の魅力である「時空間を超える」プロセスが、これまでのイメージを覆す方法で活躍するのだからワクワクが尽きない。数億年前まで遡った『恐竜』も、7万年前に家出した『日本誕生』も、定番のひみつ道具“タイムマシン”を駆使しての時間移動だった。しかし今回活躍するのは、これまで大長編ではあまり目立ってこなかった“タイムベルト”ではないか。
それを出すきっかけも、氷の年代を調べた流れで思いつきのように飛んで行ってしまうのだから、あまりにも自由だ。さらに驚かされたのは、タイムベルトの電池が切れたために離れ離れになったドラえもんとのび太たちを繋ぐ方法が、タイムトラベルSFの典型的な手段で、これまでのドラえもんではあまり見かけなかったやり方のように思える(筆者はこの場面で、何故か楳図かずおの『漂流教室』を思い出してしまったのだが)。
昨年の夏に『アンパンマン』の劇場版について書いたときにも触れたが、一般的に長続きする子供向けアニメというのは、同じようなテーマ(というよりもマインド)を持ち続けることで、時代が移り変わっても次の世代へと引き継がれていく(参考:『アンパンマン』映画、少子化でも絶好調の理由ーー“映画館デビュー”支える仕組みと安定の作風)。それは親世代が子世代に観せたいという安心感があるからであって、あくまでも“観る”主体は子供たちだ。